その他ランキング このエントリーをはてなブックマークに追加

toxandoria:フレーム&フリンジの謎

W.Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「数多の境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

マンデヴィル『蜂の寓話』は透明甲殻リバイアタン・安倍晋三ら出現への警告!『日常』とホッブスに潜むエルゴンの発見がアベ「サクラ怪獣」駆除のカギ

マンデヴィル『蜂の寓話』は透明甲殻リバイアタン・安倍晋三ら出現への警告!『日常』とホッブスに潜むエルゴンの発見がアベ「サクラ怪獣」駆除のカギ

<参考>全く同じ内容ですが、コチラ↓のヴァージョンもありますので、念のため御案内しておきます。https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/11/30/184331

(前置)

https://twitter.com/SdaMhiko/status/1198152472725843974

f:id:toxandoria:20191204091422p:plain

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1202016216006529024
・・・

・・・当記事は以下の二つの仮説を前提にしている。

(1)そもそもマンデヴィルはシャフツベリーと同等の啓蒙初期の思想家の一人と見なすべき人物である、

(2)マンデヴィルは、日々の生活(生命エネルギーの持続・継承活動)を最重視していた、

・・・因みに、(2)の『日常礼賛』(@ツベタン・トドロフ/また、自然法の根本であるエトノス観/委細、後述)には、単なる『私益』以上の深い意味があること(±プレデュナミス潜在性・潜勢態/委細、本文で後述)にマンデヴィルは気づいていた節がある。

・・・加えて、マンデヴィルは(2)の『日常礼賛』を正当に評価するための障害が当時の英国社会に蔓延する「忖度」の空気(その湧出源がシャフツベリーのモラル・センス)であると見ていたので、『蜂の寓話/私悪(私益)すなわち公益』という逆説の風刺は、これらを強烈にアピールする意図で書かれたと理解する視点に当記事は立っている。しかし、そのような重要な意味の理解は当時のイングランドの一般常識とは真逆であった

・・・ところで、「忖度しないことは非常識で、忖度することが健全な常識だ!」と見做される“不思議なアリスの国”へと、最高度の知的集団を自負する「政官学財労界、主要ジャーナリズムおよび司法・官憲」らエリート指導層の優れた戦略の下で、驚くべきスピードの相転換を体験しつつあるのが今の日本ではないか?との“無言の仮説”から当記事の準備が始まった。

・・・それに、“私益すなわち公益”方式の国策“アベ・サクラ見物の風流?”なる典型事例の如く、経済・安全保障のためならたとえ「国家(国策)犯罪」であってもソレを善しと見なす倒錯「倫理」が浮世のメジャーな常識となりつつあると思われるからだ。

・・・翻れば、「“経済・安全保障のため悪徳こそ倫理の主柱と見るべき!”との強い信念から(実はそれは逆説の風刺である)、当時(イングランド)の世間常識であった“処世訓としての美しいシャフツベリーの空気、モラル・センス”を厳しく批判し、時の指導層らを徹底的に揶揄したため大陪審で告訴される羽目となり、爾後、300年におよび、その真意が殆ど理解されぬどころか、資本主義を司る主流経済アカデミズムの手でその“逆接の風刺=私益(悪)すなわち公益”がチャッカリ悪用される(その精華が現代世界を席捲する新自由主義イデオローグ!)という実に過酷な始末と相成った人物がいる。それがマンデヴィルである。

・・・具体的にその結論を言えば、それは「グローバル市場原理主義新自由主義)に因る格差拡大」をも矯正可能と見なされる経済「エルゴン(死静態/ergon=±プレデュナミス潜在性・潜勢態)」の発見が必須だということ!特にマンデヴィル『蜂の寓話』の真意(その逆説の風刺の意味)が殆ど理解されていない日本では、自らの「明らかな国家犯罪行為」である「サクラ・スキャンダル」すら物ともせず「不遜の強欲悪鬼」と化したJPN一強権力こと<肝心のエルゴン問題など目にも入らぬ安倍サクラ政権>は、愈〻、本物の「透明甲殻リバイアタン・ファッショ」と化しつつあり、無辜の日本国民の身ぐるみを剥ぎ取り、そのあげく残り僅かな産毛一本までを根こそぎに抜き尽くそうとしている!・・・

<注記>エルゴン(ergon/死静態)

・・・W.フンボルト(19世紀、プロイセン時代ドイツの博物学者・地理学者)の用語で、普段は休眠状態にある「±」または「善・悪」など、そもそも両義的な性質をもつ情念or表象のことだが、リアルに活性化するとそれら両者の何れかを表現する言語的な意識活動となる。近年の生(命)化学、量子物理学ら先端科学研究フィールドにおける生命エネルギー論では、たとえばATP(アデノシン酸三燐酸)あるいは生体中の微小管(microtubule)などヒトの意識とプレ生命エネルギーたるエルゴンの(おそらく量子論的な?)関係性が注目されつつある(Ex.@R.ペンローズ、Cf.↓★)。

★コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/ バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

(Cover Images)

ラウル・デュフィ「ニースの海辺」1928 

・・・理知へひたすら傾斜するのではなく人間の深層に息づく感性を重んじるフォーヴィスムのジャンルで活躍したラウル・デュフィ(1877 -1953)であるが、同派のリーダーたるギュスターヴ・モロー(夢想的象徴主義の画家)の超理念(形式外へ高く飛翔する、いわば抽象化への原理的・高踏的な飛翔)とは違い、鑑賞者との間での音楽演奏(エネルゲイア)的なハーモニーの共鳴を大切にしたという意味で、おそらくモローらとは異質であった。

・・・ともかく、この「多くの人々と普通に共感できる音楽演奏(エネルゲイア)的なハーモニーの感性」を大切にするということが、デュフィの芸術をして「あり得ないことの彼方へ、より先鋭的に飛びあがり、遥か彼方の天空の世界へ多くの人々を連れ去ろうとする」のを押しとどめさせたと言えるのではないだろうか。これは“薄紙一重”の如くとても微妙な問題ではあるが。

<参考>ラウル・デュフィ展― 絵画とテキスタイル・デザイン ―/パナソニック留美術館、2019100520191215 https://panasonic.co.jp/ls/museum/exhibition/19/191005/

雲谷等顔「花見鷹狩図屏風」(桃山時代の風流/江戸期『風流』のルーツ)

f:id:toxandoria:20191127154059p:plainf:id:toxandoria:20191127154123p:plain

・・・雲谷等顔(1547‐1618)は戦国時代末期〜江戸初期にかけ活躍した画家で幕末まで続く雲谷派の祖。桜の季節になると中世の日本人は花笠をつけ笛・太鼓で“やすらいはなや”と囃し花の下で踊る慣わしがあった。それは「やすらい花」と呼ばれ、今も多くの神社などに残照が遺る(出典:池上英子『美と礼節の絆』‐NTT出版‐)。これが「風流」群舞の美であり、それはドロボー・詐欺師・暴力組織までもが国費(歳費/税収)で招待される『一強アベ様のサクラ見物まつり』&『シュレッダー方式の消去で何が悪いの? et <忖度>でええじゃないか,ええじゃないか!踊り』が大歓迎される? <日本会議ご推薦>の今の日本の風景とは余りにも異なる本物の麗しい日本の姿である。/当画像は http://urx2.nu/DlPQより)


Maurice Ravel - Gaspard de la nuit Performance:Jean-Efflam Bavouzetm、picture:W.M.J. Turner, "Norham Castle, Sunrise".

 

 f:id:toxandoria:20191201195844p:plain

f:id:toxandoria:20191201200520p:plain

https://mitsubachi-enrai-movie.jp/

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO48886760S9A820C1000000/

・・・【映画/蜜蜂と遠雷】4人の若き天才たちの魅力的なピアノ演奏の競演!美しい「映像+音」の描写に加えて、大いなる自然の中を激しく疾走する黒い荒馬と雷鳴・稲妻・波頭・・・、そしてプロコフィエフバルトークの大音響がそこで醸し出す、ある種の共鳴・干渉(コヒーレンス)するようなイメージ!彼らが善悪の価値観を超えた底知れぬ“大自然”のパワーに挑むドラマ!その黒い馬は勇気ある若者たちが果敢に挑戦するアドベンチャーの象徴であるように思われる。そして、この点は原作者・恩田 陸とは異質な感性の石川慶・監督のユニークな解釈に因る映像化の精華であると思う。

 ロローグ)

・・・3~4歳児へ先祖返りするが如き自閉<鏡像ナルシス>男が恰も神サマの如く君臨する日本!言い換えれば、傲慢なカルト狂人や嘘つき犯罪人共の頭領こと安倍晋三によって一強(超然君臨)支配されるバカリの日本は「“非シャフツベリー的な主体的な経済の美学(美的価値判断の意識)が不在”ゆえ“に幻想(中動態“忖度”)啓蒙主義”の昂進という重篤な異常観念の病理に蝕まれている!・・・

・・・

<注>シャフツベリーについては、委細を後述する。また、そもそもインド・ヨーロッパ語族の言語に存在した「中動態」文法(サンスクリット文法では反射態)は、中枢権力(王権)が確定するプロセスで抑圧され消滅したが、人間関係のパターン化ないしは慣習化したそれは欧州でも(厳密に言えば欧米でも)社会の日常には文脈上の表現作法として些かは遺ってきた。約300年前に、その「中動態」文法的な文化(政治・社会・文化的な風潮)を敢えて抽出し、それが社会・経済的に悪影響を及ぼす危険性があると警告したのがマンデヴィル『蜂の寓話』の意味だともいえる(委細後述)。日本語そのものの中動態的な文脈構造は能動態と受動態の中間であり、それが、あらゆる言説の主語・主体は誰であるかを常に曖昧にするのが最善の美徳だとする価値観を日本の社会に定着させてきた。つまり、初めから文脈全体が中道態とも言える日本社会ではその典型たる「お上への忖度!」と「主流の空気を読む!」が満ち溢れており、その弱点を突いた安倍政権の「内閣人事局で全官僚の首根っこを押さえる政策」が見事に成功し、遂には「倫理・法律・憲法よりも、まず忖度してアベ様へ『へつらう』のが一番!」という空気が日本中に溢れかえっている。今や、司法・官憲・主要メディアまでもが悉くアベ様をへつらっているのは、そのためである。

Cf.『私たちがこれまで決して知ることのなかった「中動態の世界」/「する」と「される」の外側へ:國分 功一郎・哲学者、東京工業大学教授』、https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51348

・・・ここで解説されている「中動態で、するとされるの外側の世界へ入る」ということは、別に言えば「主体と客体を曖昧化する(orさせられる)ことで、“主体の何かを行為しようとする意志(しようとする主体的な心の道理的で理性的な判断)”を主体の意図とは懸け離れた原初的な“例えば善と悪のように両義的な性質が共存するコヒーレントで不分明な混沌たる感情・情念の世界のエルゴン”へ押し込んでしまう(orそのようにさせられてしまう)事を意味すると考えられる(toxandoria)。

<参考>メジャー国民の篤い支持でファッション化した?安倍サクラ内閣の『私益すなわち公益』宣言/やがて、それが高じファッシ(真性ファシズム)化するのも指呼のうち?

f:id:toxandoria:20191127204945j:plain

「グローバル透明甲殻リバイアタン、AIネオリベ・ナルシス怪獣」の蠢きとご都合主義的に連携する<アベ強行「改憲」のプロローグを意識した“私益すなわち公益”式のアベ様のサクラを見る会>開催の動因は、明らかに日本会議ことアナクロ御仲間なる「鏡像ナルシス権力」への没入政治の現れである!(“グローバル透明甲殻リバイアタン”の委細は後述する)。

常在的な作為であるのか否かはともかく、このおぞましい光景が綺麗サッパリと自らの魂を売り払ったマイファースト知識人or同・ジャーナリストらの“悪(入?)知”恵に因るシナリオの振り付けである可能性も高い。しかし、  このような時であるからこそ巷(浮世)に溢れかえるおぞましい時流の空気と対峙しつつ17世紀科学革命の息吹をも背景とする自律市民社会の希望を逆説的に説いたマンデヴィル『蜂の寓話』の風刺の真意を正しく理解すべきである。

無論、それは啓蒙思想初期においてホッブスらにも窺われる感情の政治学の重要性を再提起したマンデヴィルに関わる致命的誤解と言っても良いだろう。因みに、啓蒙思想の歴史を顧みると、この感情の問題(つまり、善と悪のように両義的な性質が共存するコヒーレントで不分明な混沌たる感情・情念の世界のエルゴン)に関わる一定の冷静な理解の確保は、カントによる“情念統制理念、論理構成理念”の考え方の登場を待たなければならなかった。

それは、下記a、bの意味であるが委細は下記↓★を参照乞う。

a:情念統制理念:たとえ実現の可能性から離れているとしても、持続的に目指すべき“方向性”(一定の統制された情念に基づく )

b:論理構成理念:論理と実践によって徐々に実現されるべき内容

★カント「情念統制、論理構成」の峻別、それは「普遍」観念を培地とするリベラル共和主義の理解と深化に必須の条件、https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180307/p1

・・・

そもそも、経済史上でアダム・スミスの“レッセ・フェール”、つまりその自由原理の思潮(それは、抑制的であったはずのスミスの自由原理と、科学革命後の完全合理主義の安易な癒着とも見なせる!)の流れを汲むことを自負する「新自由主義ネオリベラリズム、自由原理主義」は、むしろ悪徳「エルゴン(プレデュナミス潜在性・潜勢態の悪徳の部分/委細、後述)」を強調したマンデヴィル『蜂の寓意』の、18世紀~現代までの長きにわたる曲解に淵源を持つと見るべきである。

<注>スミスはグラスゴー大学スコットランド啓蒙思想の中心人物、F.ハチソン(F. Hutcheson/1694 - 1746)の下で道徳哲学を学んだ。なお、ハチソンはグロティウスらの自然法思想(自然に基礎をおく普遍的な法/実定法の対概念)を継承する道徳哲学者であるスミスもこれらの思想的潮流から大きな影響を受けている。

・・・

f:id:toxandoria:20191127174917p:plain

<参考>安倍政権は「日本会議」指定の「戦前型ファシズム国家/アンチ自律市民社会」を目指す!

・・・これぞ、妄想“英霊顕幽論”教徒たる安倍晋三・一派のアベ型「改憲」(国民主権の剥奪が目的)の強行で、そのマンデヴィル『蜂の寓意』が曲解されたことに由来する「新自由主義」(ネオリベラリズム)がもたらす「格差」の一層の助長を作為で謀る、アベ自民党なるナルシス(戦前型自己陶酔/美しい愛国玉砕戦争へのアイロニー(没入、現実逃避)@橋川文三

・・・その無気味な「アベ・サクラ政治」は紛れもなく現代日本に着床したゾンビ「透明甲殻リバイアタン」、いわば“穴“グロテスク”「鏡像ナルシス権力」である。

f:id:toxandoria:20191127174830p:plain

・・・中欧がドイツ支配圏に戻った」は同感だが、古い資本主義が蘇ったというよりも カーサ・デル・ファッショ(@ジュゼッペ・テラー二)型の「ポピュリズムを装いつつ恰もワイマール共和国時代の退廃バビロン化したドイツ(or同時代“政治経済”激混迷期、プレ・ムッソリーニ時代のイタリア)を彷彿させる「甲殻リバイアタン」が仕込む「“ポピュリズム極右”独裁&新自由主義ネオリベ)が野合したネオファッショ」、いわば全く新しいタイプの透明な壁>(つまりファッション流儀で、それが透明な民主主義である如く装うこと)で“グローバルな防弾・甲殻ガラスの壁”」に世界中の市民社会が囲われ追い込まれつつあるのではないだろうか? ⇒冷戦終結共産主義が崩壊し古い資本主義が蘇った(エマニュエル・トッド) - 大野博人20191108論座https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019110600012.html?page=1 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1193778208044285959

1  イタリア・モダニズムの建築家、ジュゼッペ・テラー二「カーサ・デル・ファッショ/倒錯の合理主義=非人間的な“小さな機能主義”」の現代的意味

・・・テラー二の建築プラットフォーム、「透明甲殻ファッショ建築」のイメージが意味するのは自閉性の「小さな機能主義」の病理・・・

f:id:toxandoria:20191127175026p:plain

・・・画像は、G.Terragni Archive https://misfitsarchitecture.com/2014/07/13/architecture-for-fascists-by-fascists/1022-6499_la-casa-del-fascio-co/  より。

 f:id:toxandoria:20191127175109p:plain

・・・画像「カーサ・デル・ファッショ」(コモ)はウイキより。 

f:id:toxandoria:20191127175242p:plain

・・・画像は、G.Terragni Archive https://misfitsarchitecture.com/2014/07/13/architecture-for-fascists-by-fascists/1022-6499_la-casa-del-fascio-co/  より。

(1)ファシズムは『例外的なもの(あるものは無い、ないものは在る)への抽象的同一化/倒錯的合理主義、鏡像ナルシスの小さな機能主義』、いわば「亡霊的」権力の病理

 

思想としてのファシズム(fascism)は、ベニート・ムッソリーニ(Benito A. A. Mussolini/1883 - 1945)が率いる国家ファシスト党イデオロギーに始まるとされ、その最大の特徴は「民主制のプロセスで、一強化した政党による強固な一党独裁制が確立したもの」とされているようだが、現実的な政策面では実に多様な側面(例えば軍事侵略主義、マイファースト倒錯合理主義(小さな機能主義)、強権統制経済、果ては市場原理主義(現下・日本の安倍ファッショ政権のケース)など)が現れており、その全容を正確に把握するのは容易なことではない。https://twitter.com/tadanoossan2/status/1196428168837488640

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1196428168837488640

敢えて一言で、その特徴を言うならば「例外的なもの(あるものは無い、ないものは在る/果ては、都合に応じて、その真逆である“ないものは在る、あるものは無い”へ強権的に自在に転換させるようなこと)への抽象(観念)的同一化」の超然権力による強制(つまり、有体に言えば限定的な合理主義を小ばかにしつつ、強権主義で“ご無理ごもっとも!”の同調と忖度を強いるバカリの、昔から存在するバカ殿さまの倒錯合理主義の政治・経済)ということである。さぞかし、現代日本の「安倍サクラ内閣が強制的に推し進める、今や酩酊状態の極みにも等しいアベノミクス政策」などは、その典型というべきであろう。

そして、例えば強権的な統制によって一般国民層の普通の『日常生活』のあり方(ヒトに必須の“生命の論理”)を完全に無視した倒錯の合理主義政策、つまり経済的付加価値の湧出源である「『日常』のエルゴン(死静態)、デュナミス(潜在性・潜勢態)、現勢態(エネルゲイア/特に、生命エネルギー通貨の重要な意義)」を完全に無視するという異常な権力の暴走(態度)である。その意味では、行き過ぎた新自由主義による大格差拡大の放置、又は準汎用AI機械抽象的生産性とヒトの“日常”に必須の“生命の論理”の乖離、つまり前者と現勢態(エネルゲイア)の乖離、準汎用AI抽象的生産性が必然的にもたらす『人間の壁』(委細、参照↓◆)を放置・無視するような“AI‐IT経済”立国主義なども明らかにファシズムのジャンルに入る。

チェリーピンク・アベGDPの日本はAIロボ『人間の壁』経済(第4次産業・AI革命)に備え“社会の茎”、「新マクロ経済/Ex. BI型“社会的共通資本”」金融への展相が必須!https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

しかも、それはやがてヒトラー・ドイツのナチズム(Nazism)の概念(イデオロギー)と融合したこともあり、益々、一般的には分かり難いものとなっている。そのため我われがナチズムとファシズムの言葉の定義を厳密に使い分けて議論することはなかなか困難である。因みに、このファシズムの語源はラテン語のファスケス(fasces)で、それは共和制ローマの統一シンボルである、領域で割拠する諸権力を強い共和制国家の紐で縛る意味を表す「束ねた杖」(諸権力の分散を統制する強力な団結力の象徴)のことだ(添付画像)。

ここから、ファシズムの特徴は過去における「一定の国家の栄光と民族の誇りの権力表象(タイプ/Type)」を過剰なまで誉め讃え、それをこの上なく美化しつつ祀り上げる、いわば過去(ここでは共和制ローマローマ帝国時代の)において嘗て一定の目標(理想)に到達したと想定される「美しい国」の理念(ドグマ化した)を熱烈に希求する、ある種の強烈なロマンチシズム的情念(自閉ナルシズム的な愛国心への没入を強制する、一強化した政治権力による統治形態)でもあることが理解できる。因みに、ムッソリーニは熱心にプラトン(“普遍的な希望の理念”と“あり得ない妄想”とのご都合主義的な同一視のための誤った粗雑な論理のためにを研究していたともされる。

<補足>現実認知に関わる「タイプとトークンの峻別」が意味すること・・・パース(Charles Sanders Peirce/1839 – 1914/米国の哲学者、論理学者、数学者、科学者/プラグマティズム創始者)が提唱したタイプ(そもそも脳内で超時間的に、かつ自由に変容し得る概念そのもの)とトークン(その概念と対峙する関係にあるリアル/内外のエトノス自然環境と共鳴しつつも確固たる実在として因果、つまりリアル時間の連鎖に沿って流れ続ける一回性で特定・個別の対象)を区別する考え方があり、これは「Type-token distinction」と呼ばれる。

・・・

注意すべきは、政治体制の如何を問わず何時の時代でもこのような意味での情念のファクターは人間であれば誰でもが普通に内心に抱えているという現実があることだ。従って、この「権力者によるナルシズム的な愛国心への没入を強制する、一強政治権力による統治形態」(まさに現代日本の一強、安倍政権はこれに当たると思われる)の核心的なエルゴン(ergon/死静態/既出:普段は休眠状態にある両義的な情念・表象で、何らかの契機で活性化するとそれらの何れかを表現する言語活動となる)は、一体何か?という問題になる。

そこで想起されるのが、『政治の美学‐権力と表象‐』の著者である田中純(東大大学院総合文化研究科教授/思想史、表象文化論)が指摘する、ファシズム(ないしはナチズム)が持つ、一種の抽象急進主義のジャンルと見るべき「例外的なもの(又はあり得ないこと)への抽象的同一化/亡霊的権力or権力の亡霊」の問題である(日本会議、安倍政権らが信奉する“靖国(英霊)”顕幽論などは、その典型であろう)。

この「例外的なもの(あり得ないこと)への抽象的同一化」は、必ずしも、おどろおどろしい「文字どおり恐ろしげに見立てた姿やイメージ」で立ち現れるとは限らず、むしろ実際には大衆受けがし易い美しいイメージや伝統であるか、あるいはむしろ「ファッショナブルで格好が良くてステキ―!」とか、又は「とても洗練されていて美的センスが良い!」と、その見かけは好感をもって受け止められるケースが多いようだ(例えばジュゼッペ・テラー二の『透明甲殻ファッショ建築』、あるいは『盾の会』で散華した三島由紀夫の高踏な文学など(三島の画像は、http://history365days.blog.fc2.com/blog-entry-895.html より)

そして、後者は日本国民の無意識に深く浸透するファシズム美学の秀作へ昇華している訳だが(田中純は、これを文学の世界における“死に損ないの原理”と呼ぶ/無限後退的に敗戦のトラウマに飲み込まれた儘で、成仏もできず宙づりのゾンビとなっている深層心理の残滓の謂い)、おそらくその宙づりゾンビたる日本会議の指南に沿って、これを薄っぺらに“オレ・アベ様の巧妙な政治利用”と気取った『(美しい?wアベ様の)桜を見る会』は、むしろ無気味な安倍晋三・首相とその同類のドヤ顔(いわゆるサクラ)バカリを見せつられるトンデモ“亡霊的権力”であったようだが?w)。.

(2)ファッショ(ファシズム政治)に回収された現代建築家テラー二「小さな機能主義」の傑作、カーサ・デル・ファッショ

今もインダストリアルデザインの世界に大きな影響を及ぼすイタリア合理主義と、ファシズムの結び付きは、モダニズムの運動をイタリアに普及させようとジュゼッペ・テラーニが1926年に「グルッポ7」(Gruppo 7、https://www.idesign.wiki/tag/gruppo-7/)を設立した時から強まったとされる。そして、グルッポ7の建築宣言はフランスの建築家ル・コルビュジエの著書『建築をめざして』(1923)の影響を受けており、コルビュジエが訴えたフレーズは「住宅は住むための機械」ということであった(画像は、https://www.idesign.wiki/giuseppe-terragni/より)。

 が、そもそもル・コルビュジエ(Le Corbusier/1887 - 1965/フランク・ロイド・ライトミース・ファン・デル・ローエと共に“近代建築の三大巨匠”とされる)のフレーズ「住宅は住むための機械」が意図したのは「住宅は人が住むための機械と見るべきで、それは一般の人々の暮らしに合わせて使いやすく、しかも彼らが購入しやすいリーズナブルな価格で量産可能なものであるべきだ」いう、あくまでも建物の中で暮らし、そのなかで生活と仕事を創造する人々のためのもの(ヒトの生命の論理に貢献すべきもの)、つまり其処に住まう人間を最重視するということであり、ひたすら外形表象の美を求めて、その世界へ没入することではなかったのだ

そして、特に数学そのものに高い関心を持ち続けたテラーニが、その「現実にはあり得ない抽象性の典型」である<数学的抽象美>をリアルな建築造形へ昇華させる仕事の追求、つまりその高度抽象性なる超合理性の美の表現と関連づけて最もこだわったのがファサード・デザイン(建築物の正面部分のデザイン)である。必然的に、そこからはロマネスク、ゴシック、ルネッサンスバロックロココらの建造物のファサードデザインの特徴である「幾何学的な要素と自然造形的な諸要素(何らかの生命の論理を反映した装飾・文様等)とのバランスをとりつつ配置する」という視点は除かれることとなった。

無論、このような特徴が現代でも合理主義的なモダニズム建築の一つの魅力となっていることは確かなのだが、テラーニでは、それが徹底されるあまり自らの手本としたル・コルビュジエの建築美学(建築の基本構想部分)から“人間性の最重視”という最も肝心な基本ファクターを根底部分で一掃してしまうという、一種の倒錯的な美学へ没入するループ回路に嵌ったことになる。当然ながら、それはテラーニだけの責任と見るべきではなく、それこそファシズム時代の<忖度・同調>が強制される空気というステージ上での出来事であった訳だ。

それと同時に、このジュゼッペ・テラーニのモダニズム建築がファシズム政治の更なるファシズムとカーサ・デル・ファッショ」がイメージ表象を共有することを示す、このテラー二自身の言葉は非常に重要なヒントを我々に与えていると思われるので、同書『政治の美学‐権力と表象‐』の中から、田中が強調しつつ説明している部分を」以下に転載しておく。(P416~426/裏返された“ガラスの窓”―カーサ・デル・ファッショ―)

・・・

・・・前、省略・・・では、テラー二の「家」はどこに位置するのか。それはどのような「住まい」を目指しているのか。カーサ・デル・ファッショにおいて追求されているのは文字通りの透明性ではない。内と外の単純な関係はそこにはない。トーマス・シューマッハーは、この建物がほかの多くのイタリア合理主義建築とも、いわゆるインターナショナル・スタイルの建築とも異なり、奇妙な両義性(見かけの開放性と閉鎖性の)を持っていることを指摘している。・・・途中、略・・・

カーサ・デル・ファッショは、これら前者二つの建築よりも遥かに堅く閉ざされているように見えながら、しかし同時にはるかに透明な感覚もまた与えるのである。堅い直方体をくりぬいた彫刻にも似た印象と共存して、大理石の被膜、コンクリート・フレーム、そして水平に並んだ窓の列といった要素が加算的に結合された結果としての、解体寸前の危うい均衡状態にあるかのような独特な透明性がそこには感じられる。・・・途中、略・・・

そして、このように内部/外部が逆転し、分裂してしまうとき(この奇妙なパースペクティブのもとで)、カーサ・デル・ファッショの外側に身を置く者は、実は既に何ものかの内側にいることになるだろう。逆に、建物内部はもはや閉ざされ限定された空間ではなく、はるかに広大で無限に近い外部空間(しかも、内と外が倒錯的に逆転した)であることになるだろう。・・・途中、略・・・

シューマッハーが指摘するように、ガラス扉はいわば「聖別」されており、この正面口(アトリウム側面の)からの移動(特別に配置された動線の一定の誘導による)が連想させるのは、ファシスト党員がアトリウムに集結し、十六のガラス扉が一斉に解放されて、黒シャツ姿の党員たちが一団となって広場の中央へと向かう場合にほかならない。・・・途中、略・・・

カーサ・デル・ファッショがファシズム革命に殉じたメモリアルでもあったとすれば、テラー二のダイアグラム(特別に仕掛けられた一定の動線の流れ)で表されているのは、この死者の家という彼岸から広場へとなだれ込んでくる、亡霊たちの殺到のようにも見える。(つまり、シューマッハーによれば、カーサ・デル・ファッショは内骨格が外骨格化する形で倒錯した、しかもその倒錯感覚が無限の反復を繰りし、その中心へ収斂する(飲み込まれる)ように感じられる、新種の不気味な甲殻生物の如きであることになる。←toxandoriaの解釈的な補足的)・・・後、省略・・・

・・・ 

つまり、テラー二の建築は第五章で取りあげる「リアル触覚遊牧民、小さな人間」の建築、つまり小国フィンランドのアルヴァ・アールトが創造した「小さく、ひ弱な人間のための建築(一回性の命を日々に紡ぐリアルな生命の論理)」とは全く異質なアールトの最も特徴と言える「大きな機能主義/人間性を包摂する、人間のための機能主義」の正反対に位置する、大仕掛けな見かけとは異なり異界に住む亡霊やゾンビたちのための閉鎖的な、つまりナルシス鏡像的な「小さな機能主義」(マイファーストも此のジャンル)の建築プラットフォームである。まさに、それは「透明甲殻リバイアタン・ファッショの建築美学」とでも呼ぶべきものかもしれない。

2  17世紀(初期啓蒙思想期)は科学革命と仏モラリスト(只管、感情と論理の泥試合的な綱引きの場と化した宗教への批判)の時代に重なる

・・・17世紀(啓蒙幼年期)は「モラリスト、“脱ドグマ”啓蒙市民社会、“オランダの光”が象徴する“日常のエルゴン”(プレ生産デュナミス潜在性)と“機械”生産デュナミス潜在性の発見」が鼎立する、いわば今のAI時代のコンシリエンスの先取りともいえる画期の時代であった・・・

 (1)科学知の深化とモラリストの出現は感情と論理の泥仕合の場と化したキリスト教への冷静な批判

 (“機械”生産デュナミスの発見に繋がる科学革命と“日常のエルゴン”(プレ生産デュナミス潜在性)の発見に繋がるモラリストの17世紀)

 <注記>デュナミス(潜性態・潜性態/dynamis)

・・・潜勢態(デュナミス)は現勢態(エネルゲイア/energeia)に先行的に対応(いわばプレエネルゲイアの謂いで)するアリストテレスの用語。当記事の冒頭で記したエルゴン(ergon/死静態)が、普段は休眠状態にある「±」または「善・悪」など、そもそも両義的な性質をもつ情念or表象のことを意味するのに対し、それがリアル活性化すると両者の何れかを表現する言語的な意識活動となる。つまり、ヒトの『日常』(日々のリアル生命活動)は「デュナミス(プレエネルゲイア)⇒エネルゲイア⇒エンテレケイア(entelecheia)」のプロセスに支えられている訳だ。

・・・従って(+)のデュナミスが何らかの機械処理ないしは消費活動等で言語(経済活動)的に表現され、それが形式化され(例えば契約などの形で)「現勢態」化するとそれが新たに創造される経済価値(付加価値)のデュナミス(潜在性・潜勢態)というリアル可能性の創造物となり、その貨幣化による分配と蓄積がヒト・企業・国家に必須の富の形成力(エネルゲイア)となる。

・・・つまり、このプロセスを真逆に見れば自然エトノスおよび人間社会のネットワーク網(生命の論理たる生命エネルギーの交換・代謝・展相が多次元的に連鎖する世界)における両義的なエルゴン(±、善・悪の表象らが無意識レベルの感情の海のなかで入り混じつ混沌の世界/おそらく後述するザハヴィの無媒介的認知的自己意識に重なる)が一回性の邂逅で発火・燃焼する所在を絶えず、日常のなかでリアルに探索することが、先ず非常に重要であることが理解できる

 ・・・

 英国の歴史学者ハーバート・バターフィールド(Herbert Butterfield/1900 - 1979)は、1949年の著書『近代科学の誕生』の中で近代の画期として、17世紀を「科学革命の時代」と名付けている。具体的に見ると、それはN.コペルニクス、J.ケプラー、G.ガリレイ、A.ニュートンらによる科学研究上の大きな変革のことを指すが、その影響を受けた哲学上の変化も含め、この時代は「17世紀科学革命の時代」呼ばれることもある。

しかし、この時期の科学者が宗教の頸木、または羅針盤から完全に解き放たれていたと見るのは大きな誤解を生むことになる。例えば、後で委細を述べるフランスの思想家で「宗教的自由主義」を主張したピエール・ベールは、デカルトRené Descartes/1956 - 1650/数学者、合理主義哲学と、近世哲学の祖)の物理学に従って、処女作『1680年の彗星に関する随想』を書いたが、そのデカルトの物理学には“神によって保証された法則”との注釈が付いていた(@平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)/京都大学・経済論叢:第89巻‐第2号』)。

それは17世紀後半~18世紀にかけての欧州「啓蒙思想」期の前半(初期啓蒙思想期)にほぼ重なり、この時代の主な思想家では英国のホッブス、J.ロック、スコットランドのD.ヒューム、フランスのヴォルテールディドロモンテスキュー、J.=J.ルソーらが先ず想起される。それは「聖書・教会、神学、王権」ら諸権威のドグマ(固定観念)から脱し、理性により人間の意思(意識)と権利の「普遍性」を定義し、その保全のための政治体制(民主主義社会)を創造する思想活動であった。

そこで、これから以下の章で述べるマンデヴィルへ大きな影響を与えたという意味で、17世紀フランス“啓蒙思想の先駆け”の思想家ピエール・ベール(Pierre Bayle/1647 - 1706)について少し触れておく(委細は第3章で詳述)。フランスの思想家ではあったが「宗教的自由主義」を主張したピエール・ベールはカトリックの国であるフランスから、リベラルの空気が濃厚だったオランダのロッテルダムへ移住している。

丁度その頃にロッテルダムエラスムス学校にマンデヴィルが在籍していた。そもそもベールは、1675年からフランスのセダンにあるプロテスタント系アカデミーの教授を努めていたが、1681年のルイ14世の勅令によって同校が廃止され、フランスにおけるプロテスタ ント迫害が過酷となってきたためフランスを逃れ、オランダへ移りロッテルダムでの教授職を得 て、オランダにおいて著作活動に専念するようになっていた。

ピエール・ベールがフランスで活躍していた時にほぼ重なる頃から、フランスにモラリストたちが現れる。モラリスト(moraliste)とは道徳家(moralisateur)とは異なる概念(というか、厳格な道徳家とは真逆で自由な発想を持つ人々)であり、彼らの思考は主にエッセイや文学・箴言などの形で表現される。その感情・感性の要素を重視しつつも、一方では大局的で冷静な視座で論ずるモラリストの思考は人間の日常における意識活動の多面性・多様性を様々な角度から深く思考するという、フランス文化に特有な知的伝統の一つの柱となっている。

特に大きな特徴と見るべきことは、それが宗教や道徳の厳正主義(厳格主義/rigorism)から解き放たれた自由であるが故の「両義性」という点にある(むしろ、多義性と言うべきかもしれない)。また、モラリストの発祥については諸説があるようだが「フロンドの乱/1648 - 1653」~「アンリ4世/フランス絶対王政の確立期」の間において「既存の政治体制と既成の価値観」(アンシャンレジーム)が崩壊する過程に入ったという点に求めるのが妥当と考えられる。

ところで、現代の「宗教的自由主義」は「宗教原理主義」(キリスト教の場合は主にプロテスタント聖書原理主義(聖書(福音)主義))と正反対の立場で宗教的リベラリズムと呼ばれることもあり、それは現在にも繋がる中々デリケートで難しいテーマである。なぜなら、今では「キリスト教での宗教原理主義」と言えば主に米国のプロテスタント系「エヴァンジェリカルズ(福音主義派)」を指すが、聖書原理主義カトリック系にも、又は神の唯一性(三位一体否定)を主張するユニタリアンでもあり得るからだ。

例えば、今の米国で「エヴァンジェリカルズ(プロテスタントキリスト教福音主義派/聖書原理主義派)Vs(宗教的)リベラリズム」の対立の形で現れており、今のところトランプ岩盤支持(約40~50%)の中核をプロテスタントエヴァンジェリカルズ(推定総数ca1億人/米全人口の約1/3)が占めており、トランプ大統領の再選へも相変わらず大きな影響を与える可能性がある。尤もこの構造の“背後霊”はペンス副大統領である(ペンスはカトリックエヴァンジェリカルズを自称し二股をかけている?苦w)。

(2)“脱ドグマ”啓蒙市民社会の曙、“オランダの光”が象徴する“機械”生産デュナミスと“日常のエルゴン”(プレ生産デュナミス潜在性)の発見

(“脱ドグマ”啓蒙市民社会の曙を準備し開花させたネーデルラントのエトノス環境

 <注記>エトノス(ethnos)とは?

・・・[世界大百科事典 第2版(平凡社)]によれば、「そもそもエトノス(ethnos)は、ギリシア語で民族を意味する。民族学の用語としては,ロシア系の民族学者S.M.シロコゴロフがはじめて本格的に論じ,ドイツの民族学者ミュールマンW.E.Mühlmann(1904‐ )などによって,この概念の重要性が明らかにされた。それは,同一の文化的伝統を共有するとともに,〈われわれ何々族,何々人〉という共属意識をもつ最大の独立した単位集団をいう。したがって,一つのエトノスは場合によっては,バンドでも,氏族でも,部族でも,さらにカーストでもありうる。」ということになるが、ここでは更に、その後の自然科学・歴史・地球環境・民族等に関わる研究と人間社会における意識上の変化等を反映させつつ、さらにエトノスの概念を拡大して定義(仮に)しておく。

・・・つまり、それは<ethnosは古代ギリシア語に由来しており、村や都市に集住する「民衆」(デモス/demos)の周辺に住み、その「民衆」以外の部族集団のことを意味するから、エトノスの意味は、そこに置かれる人々の立ち位置が変われば正反対になり得るので、そもそも絶対的で画一的な評価を伴う言葉ではなかった。おそらく、それは「生命」現象そのものと同じく、永遠に揺らぎつつも各アイデンティティーの持続性を必死で繋ぎとめるべきものであるのかも知れない。従って、エトノスとは『人間の生命と社会生活の維持に必須となる一定のローカル地域の自然・歴史・文化環境と深く共鳴して“人間性を未生(未来)へ繋ぐ揺り籠”となし得る開放系の共有観念、および風土または過去〜現在〜未来に渡り生存環境の微小馴化(マイクロバイオーム世界、量子物理学世界の理解など)を常に受け入れつつも、その伝統的なヒューマン・スケールの全体性の“持続”を最も重視する、非常にしなやかで幅が広い寛容の意識、およびその受け皿となるローカルの風土』を意味する。>ということになる。

 ・・・

 

・・・Rembrandt「The Night Watch」1642 Rijksmuseum 、Amsterdam , Netherlands

・・・ Vermeer「 Girl with a Pearl Earring」c.1665. Mauritshuis, the Hague, Netherlands

近世のネーデルラント地方(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクの3か国、いわゆるベネルクスとも呼ばれる低地地域)は近代資本主義の誕生の地であり、その繁栄のピークを代表するのが「レンブラントの時代」とも呼ばれる17世紀のオランダである。因みに、光と影の画家とされるレンブラントは、キリスト教への賛歌に留まらず市井の普通の人々のリアリズム感覚に限りなく接近していた、フェルメール、カラヴァッジョ、ルーベンス、ベラスケスらと並びバロック絵画を代表する画家の一人である。

ネーデルラント(低地)の呼び名のとおり、この地域はヨーロッパ北西端の最も低い土地にあり、アルプスから発しドイツを南から北に流れるライン及び北フランスの山岳地帯から流れ出るマースとスヘルデの三つの川が、ここで北海に注ぐ。 このように平坦な土地を流れる河川の歴史は、必然的にこの地域での人流・物流を活発なものとしてきたうえ、ほぼ欧州の中心の位置でもありネーデルラントはヨーロッパの文化・言語・政治権力が出会い、交流し、激しく衝突する場でもあった。

今でも、当地域にはEUユーロポート(ロッテルダム)、ブリュッセルEU本部、ハーグ国際司法裁判所など欧州と世界の民主主義にとり重要な中枢機構が点在し、ゲルマン文化とラテン文化、オランダ語フラマン語ワロン語、フリースラント語、独・仏・英語がモザイクのように点在する形で共存している。つまり、その特徴を一言で言えば“絶えざる人的交流と流動的な異文化の坩堝”といえる。

およそ16~17世紀の近世史の流れのうえでも、このような人文・自然地理および歴史環境(いわば欧州の中央部に位置する低地地方というエトノス環境の中でも、北方ネーデルラントとも呼ばれるオランダは広い意味での欧州の紛れもない先進地であり、特に強大なハプスブルク支配から独立したばかりの17世紀のオランダ共和国において、新しい近代的な法思想や科学知識が深化しており、また新興市民階級(指導層はレヘントと呼ばれる、主に商人が出自の都市貴族)の勃興パワーと初期資本主義の発展が著しかった。

例えば、迫害を逃れるためポルトガルからオランダのアムステルダム(当時、アムステルダムはヨーロッパで有数の国際商業貿易港で自由と寛容の空気が流れていた)へ亡命した裕福なユダヤ商人の家に生まれたスピノザ(Baruch de Sponoza/1632〜1677)の事績がある。ここでスピノザは温厚なユダヤ神秘主義の精神とルネサンス以降の合理精神(スコラ哲学的論理学、デカルト哲学、数学、自然科学など)を統一して、独創的な哲学体系(寛容の哲学体系)を築いている。

あるいは、デルフトの有力市民(市長や参事会員を輩出した家系)の子として生を受けたグロティウス(Hugo Grotius/1583〜1645)は、14歳でライデン大学を卒業し、15歳でオランダ連邦共和国の施設団の一人としてフランス国王アンリ4世(1553〜1610/ブルボン王朝フランスの始祖/新教徒(ユグノー)と和解するため1598年の“ナントの勅令”で一部の信仰の自由を認めフランスの宗教戦争を終らせた)に謁見する機会を与えられている。

21歳の時に、グロティウスはマラッカ海峡で起こったポルトガル船による拿捕事件でオランダ東インド会社から委嘱を受けて『捕獲論』を書き東インド会社の立場を擁護しているが、更にグロティウスはその一部を『海洋自由論』として出版(1609)し、いかなる国の国民でも「自然法」の原則で海洋を自由に航行し、他国民と自由に交易をする権利があることを説いた。

18世紀に入ってからこの海洋自由論は広く世界的に承認されるようになり、現在の「公海」と「領海」の概念が成立したという海洋法に関わる歴史がある。なお、「自然法」は、ストア派の宇宙の理法(今で言えば自然計算の観念?Cf.↓)に由来し、中世ではキリストの啓示がこれに代わり、啓蒙思想のころから普遍的な法則性と規範性の二義性が意識されるようになった、実定法に優越する法理のことである。

♨ 想定上の完全AIアンドロイドはなぜ胡散臭いのか? それは「アナログ/自然計算(“暗黙知”ワールド?)」と「デジタル/AIディープラーニング(“形式知”抽出マシンワールド?)」の溝の深さによる?(仮説)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514

・・・

現在から逆照射すれば、それは殆どエトノス自然環境(地球環境内における生命の論理、地球温暖化の問題意識からそれは凡ゆる生命を含めた意味での倫理へと拡張しつつある)の考え方に重なると思われる。

また、1618年のオランダ移住後に「三十年戦争」へ参加しドイツの各地で過ごし、更にイタリアとフランスの各地を旅したあと、再び1628年にオランダに戻ったデカルトが、その後、21年間にもおよびアムステルダムで研究を続けている。そして、その間に、にガリレイの地動説を論じた著作がローマ教皇庁の宗教裁判で有罪とされたこと(1633)に大きな衝撃を受け、彼自身が天体を論じた著作『世界論』の公刊を断念する事件が起こっている。

(17世紀オランダの新興市民らによる『“機械”生産デュナミスと日常礼賛の意義の発見)

 

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1196562627746390019

現代世界は、米国「トランプ政権」と日本「安倍政権」という二つのニュー・タイプの“ある意味で奇妙な”ファシズム権力(透明甲殻リバイアタン・ファッショのジャンル?)の暴走に脅かされつつあるとも言えそうであり、この両者を手玉に取る位置に立つのが中国(習 近平・主席)だ。これら三国のトップ(トランプ、安倍晋三、習 近平)は、外形的に“三者三様”に見えるが、実は宗教原理主義中国共産党一党独裁は、いわば宗教もどき!)絡みの<異様権力原理主義>という意味では共通した「人権に関わる深刻な宿痾」を抱えている。Cf.「米中新冷戦の「いい湯加減」?試金石は香港 編集委員・滝田 洋一/核心1118日経」https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52230160V11C19A1TCR000/

つまり、それが前段で“ある意味で奇妙な”と述べたことに関わる訳だが、それは、夫々にヘイト・ステルス宗教(権力基盤たる“背後霊=守護神”)問題が絡むあまり、肝心のエトノス(観)を見失っている上に、最も重視すべき真の「経済生産デュナミス」と「日常生活のエルゴン(プレ生産デュナミス潜在性)」の視点を完全に見失っているという意味だ(米:エバンジェリカルズ(プロテスタント福音派/ca.1億人、対国民比ca.3割強を占有/副大統領ペンスを介しトランプの守護霊ともなっている!)、日=日本会議国家神道復活派/国民比では僅少ながら自民党保守系議員(国政・地方共に)の占有率が異常に大きく安倍内閣では、ほぼ独占状態)、中国=上で述べたとおり宗教もどき中国共産党一党独裁)。

一方、世界の歴史を振り返ると、17世紀の欧州の中心地ネーデルラント(ほぼオランダ連邦共和国に重なる)では「新しい時代の光と空気」(今で言えばエトノス観)、具体的に言えば17世紀科学革命、モラリスト啓蒙思想(前期)、オランダ典雅法律学(フット/J. Voet/1647-1714)が代表する人文主義的な広角の法解釈)などに共鳴した新興ブルジョワ市民層らの間から、更に日々の生活を充実させようとする気風が高まっていた。

より具体的に見れば、それは低地ネーデルラントオランダ)の中世から引き続く国土干拓の歴史、それに伴う機械・土木建築・造船・航海などに関わる技術開発の進化、そして金融・証券市場の創設と東インド会社の設立、内需(消費)市場の成熟、芸術創造の活性化(レンブラントフェルメールらの活躍、本格的画商の登場、果てはチューリップバブルの崩壊)etcとなる。

つまり、世界で最初の市民革命(商人ブルジョワ層中心の)でもあった「オランダ独立戦争」(1568-1609)によって、中世自由都市の面影を残しながらも英・仏に先駆け逸早く市民による活発な交易活動社会を実現した17世紀のオランダ(その黄金期を、オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガ(J.Huizinga/1782-1945)は『レンブラントの時代』と名付けた)は、新興ブルジョワ階層(レヘント(Regent)と呼ばれる主に大商人を出自とする都市門閥貴族)を主体とする市民社会を創りあげた。

彼らは、その地の利と他国に先駆けて芽生えた「17世紀オランダ近代理性主義」(16世紀のエラスムスを源流とするグロティウス、スピノザなどの系譜)の知的遺産と欧州の十字路と呼ばれるマルチリンガル個性的文化を十分に活かして、このネーデルラントの地で、現代的な意味合いに近いグローバルな初期資本主義と呼ぶべき活発な経済活動を展開した。

やがて英仏両国から追撃を受け彼らの黄金時代は終わることになる。そして、このように「レンブラントの時代」が約100年足らずで終焉を迎えた背景には未解明の部分が多いが、一つはっきりしていることがある。それは「絶対王政の歴史経験がないオランダ連邦共和国(1580頃 - 1795/レヘントから選出される総督がトップで、同じくレヘントから成る市議会・州議会・連邦議会議員が政治を独占)では近代官僚制の発達が不十分であった」ということだ

他方、これを追撃した英仏両国は、それぞれの絶対王政時代を通して強大な近代官僚制を創り上げていった。このことから、歴史過程に照らしたその功罪の評価をともかくとすれば、近代国家を効率的に経営する条件として、確固たる理念をバックとするエリート指導層の形成と共に近代官僚制度の整備・充実は必要なことであったと考えられる。ともかくも、このように17世紀ネーデルラントの中心地であったオランダの近世史を概観すると、それは、紛れもなく「ネーデルラントに住む新興市民らによる『“機械”生産デュナミスと日常礼賛』の意義の発見」ということであった

特に後者の『日常礼賛』について見ると、当時の「各国が貿易収支の差額(黒字)により国富の増加をめざす重商主義(mercantilism/典型的な自国第一の保護主義)を採っていたこと」に照らせば、この『日常礼賛』を経済活動の第一義に位置付けるべきとする発想は、当時としては異端視される可能性すらあったと思われることを注視しておくべきだろうしかし、マンデヴィルはコレに気づいていた節がある。

つまり、この『日常礼賛』をストレートに「私益の飽くなき追求=悪徳」へと読み替えれば、後述するマンデヴィル『蜂の寓話』の風刺と重なることが興味深い。当記事は、それをストレートな風刺ではなく逆説であったと見ている。謂わば、この『日常礼賛』には単なる『私益』以上の深い意味があることに気づいていたからこそ、最もそれを重視すべきだ!ということをマンデヴィルは逆説で表現した!?と見ている訳だ。しかし、その重要な意味は当時の建前上の一般常識とは真逆であった。

ともかくも、言い換えればそれは機械・土木建築・造船・航海などに関わる技術開発の進化に伴う<“機械”生産デュナミスと“日常のエルゴン”(プレ生産デュナミス潜在性)の発見>ということである。因みに、デュナミス(潜在性・潜勢態/dy(u)namis)は、現勢態(エネルゲイア/energeia)に対応する、アリストテレスの用語であった。序に言えば、同じくアリストテレスによれば目的に到った状態のことはエンテレケイア(entelecheia/プラトンイデアに匹敵する)と呼ばれる。

エルゴン(ergon/死静態)は、記事の冒頭でも記したとおり、W.フンボルトの用語で普段は休眠状態にある「±」または「善・悪」など、そもそも両義的な性質をもつ情念or表象のことだが、それがリアルに活性化するとそれら両者の何れかを表現する言語的な意識活動となることが理解できよう。そこで、これら三者(四者)の概念を時間軸に沿って接合すると「エルゴン→デュナミス→エネルゲイア(→エンテレケイア」となることが分かる。

f:id:toxandoria:20191128071241p:plain

また、このアリストテレスの相転換のイメージから、同様に段階的な転層の意義を説くフランス科学認識論の哲学者、G.シモンドン『個体化の哲学』(叢書・ウニベルシタス)が想起される。この著書でシモンドンは、“ミクロから宇宙規模のマクロにおよぶ大自然世界における相転移の問題意識”の連続リアリティ概念を説明しているが、又これは個体生命内の「ATP/アデノシン酸三燐酸(動植物に共通の個体内における生命エネルギー通貨)」創造の問題とも深く関わると考えられるので、これから益々重視すべき非常に重要な概念(認識)である。

以上のことから、そもそも今までの経済学が無視(又は見落としてきた)ファクターとして「『エルゴンの“未生の±価値”=プレ潜性(可能)態』」の重要性が認識できるのではないかと思われる

より具体的に言えば、それは<リアル経済価値(付加価値創造)に至る以前の「潜在価値」転層プロセスの問題>ということである。無論、17世紀科学革命の頃から意識されるようになり、そして今や本格的なAI時代に入りつつあるからこそ、益々、解決を急ぐべき機械高度生産性Vs労働生産性(ヒトの低生産性)(大格差の発生)=人間の壁>の問題があることは言うまでもない

ところで、それに加えて注目すべきは<17世紀『レンブラントの時代』に生きた新興市民層の人々が、それは殆ど無意識であったにせよ、資本主義が深化しつつあった17世紀ネーデルラントの『日常の生活』のなかで、そのことの重要な意義に十分に気付いていた節があること。ともかくも、それを見事に摘出してみせたのがブルガリア出身のフランスの思想家・哲学者、ツヴェタン・トドロフ(Tzvetan Todorov/ 1939 - 2017)である。

 

ツヴェタン・トドロフは、著書『日常礼賛』で「17世紀オランダにおける“自律意識が高い市民らの日常生活”充実への粘り強い拘りと好奇心に因る社会ネットワークの多様化」こそが、初期の近代資本主義が当地で発達した理由となっていることを見事に摘出している。れは、何事につけ強権ワンポイント主義で全てが解決することはあり得ないことを前提に、啓蒙思想を培地とした絶えざる『日常』(日々の生活)の充実を求める市民層の、多様性を求める強い自律意思(共生志向の主権者意識)にこそ、普通一般の人々の日々に新たな民主主義への希望を与え続けていたということだ。

別の言い方をするならば、「ツヴェタン・トドロフ『日常礼賛』は、絵画と世俗・日常の完全な融合を実現した17世紀オランダ絵画の意味を斬新な視点で抉ったものであり、同じトドロフの注目の新著『民主主義の内なる敵』と併せて、今こそ改めて読むべき内容だと思われる。それは、この時代が<政治・経済的には近代資本主義の幕開けを飾った「画期の時代」>であると考えられるからだ。」ということになる。

<注記>ツヴェタン・トドロフ『日常礼賛』のポイント(17紀オランダ市民層がフェルメールレンブラントらの絵画に惹かれた訳)

・・・「写実主義と寓意的意味という二つの狭い視点だけでしか風俗画とも呼ばれる17世紀オランダ絵画を見ることはできないのだろうか?」というのが、ツヴェタン・トドロフ『日常礼賛』の出発点(同書を書く動機、多元的な眼差し)であった。トドロフはそこに共通する<日常生活のジャンル>のなかに存在する、豊かさへの節度ある願望が持つ尊厳性ということに気づいたのだ。
・・・つまり、「写実、寓意(道徳、啓蒙)、画家自身の眼という三要素がもつれ格闘(entangle)する過程の中に画家たちは三つの夫々に還元できない、ある種の新しい人間的な美意識を伴うリアルな文化・経済価値を創造する作用を発見した」とトドロフは主張する。もっと言えば、これら三つの要素と中間層市民の『日常生活(の礼賛、へのこだわり)』という個々の異なるエトノス(世界観)の緊張関係の中で彼らは次々と「美意識と多元的な経済価値のフロンティア」(エルゴン)を発見し続けたのである。そして、17世紀オランダの市民層の旺盛な好奇心は、このような点に強く惹きつけられた
・・・より大きくとらえるならば現代にもつながる人間の営みの普遍性であり尊厳性
でもあると見るべきことで、それは<資本主義経済の持続性(および結果としての成長)を請け負い保証するプラットホームが普通一般の市民層の日常生活>の中にこそあるという発見であった。つまり、それは彼ら一人一人の、自分自身の中と見知らぬエトノス県境の世界の中に無限に存在するという、いわばそのような意味での「エルゴン」の発見であった
・・・更に言い換えれば、それまで圧倒的な宗教の支配に従属していた人間の本質的なもの、人間の自由意思と正統な宗教意識の適度な調和と距離感を実現する啓蒙思想(相互の信頼と信用を保全する共同主観性としての政教分離の理想)にこそ馴染む、多数派市民層を中心とする“日常生活”の意義の発見ということだ。無論、この当時のオランダの「政教分離」は未完の発展プロセスの途上ではあったが。
・・・そして、それに必要な一定限度の貨幣「量」およびその多数派層の市民(17世紀オランダの場合は各自治都市の自律意識を持つ市民層)の日常生活を支え得る、過剰(バブル)にならぬ程々の貨幣流通「速度」(経済学的には、同一の貨幣が一定期間内に何回持ち主を変えるかの平均で、貨幣の『所得速度』とも呼ばれる/実は、現代でも忘れられてきたが、彼のケインズがこれを最重視していた)の確保の意味(重要性)の発見ということだ。

・・・

今まで書いたことと一部重複するが、以上から理解できることを、経済価値(付加価値創造)に関わる「生産デュナミス(潜在性)→リアル付加価値創造エネルゲイア(現勢態=個人所得・企業利益・税収・国富など)」のフローとして概観すると、以下のとおりになる。

・・・(1)エルゴン(死静態/ergon/未生の“±価値”/プレ潜性(可能)態)→(2)デュナミス(潜性(可能)態/du(y)namis/未生の“+価値”(付加価値創造1))→(3)エネルゲイア(現勢態/リアル経済価値(付加価値創造2))

「Luddite movement」の画像検索結果

・・・画像は、https://www.history.com/news/industrial-revolution-luddites-workersより。

17~18世紀「産業革命」以前の機械力が殆ど介在しない段階での資本主義では、農業生産と商業市場および遠隔交易に関わる経済のパイが大きかったが、同革命後(進行プロセス期を含む)のそれでは、次第に(2)の段階における「機械デュナミス潜性態」の占有が大きくなってきたと考えられる。そして、そもそも[(2)]Vs[(3)]で発生する、技術革新(労働・機械両生産性の質的な差異)から発生する大きな格差の問題は「産業革命」の頃から意識されてはきた(Ex.英『ラッダイト運動( Luddite movement/機械打ち壊し運動)』、http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h28/hakusho/h29/html/n1131c02.html)。

f:id:toxandoria:20191208074719p:plain

https://twitter.com/sakuhinsha/status/1195510132462895104

因みに、新刊のデヴィット・ハーヴェイ『経済的理性の狂気』(作品社)は大変興味深いが、マルクス資本論」が上部構造(宗教・カルト・道徳・芸術・法制・政治ら謂わば情念)の狂気をも指摘しており、それ故にラッダイト運動も機械(今で言えばAI-ITら)ではなくそれを悪用し私益を謀る政治的なもの(例えばアベ的お仲間政治など)を破壊すべきと主張した点も改めて重視すべきだろう。

しかし、AI革命が喧伝される現代では、(2)が徐々に全面的な「AI機械デュナミス潜性(可能)態(潜在的なAI機械高付加価値)」への移行が予想されることとなり、同時に[(2)]Vs[(3)「特に個人所得の部分」]の格差拡大(断絶の発生と固定化)が大きな問題となっており「ネオ・ラッダイト」の時代の接近も懸念されている訳だ。

しかも、このような切り口から見れば、特に無限の可能性さえ秘める[(1)エルゴン(死静態/ergon/未生の“±価値”/プレ潜性(可能)態)]に全く気づいていないか、あるいはそれを承知で無視してきた新自由主義が、実は経済思想とは似て非なるものであることが歴然とする。無論、新古典派以降の正統派の経済学も殆どコレは無視してきたと思われる。

f:id:toxandoria:20191202214028p:plain

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1196423460928360450

因みに、いま日本政府が「IPSストック事業(山中伸弥氏)」への支援を0レベルへ減額したことの大きな衝撃が拡がっているようだが(20191118日経)、これは日本政府がこのような意味でのエルゴン・レベルの、言い換えればプレ潜在価値(=未生の“±価値”/プレ潜性(可能)態)について全く無関心か、あるいは無知である(新自由主義の短絡である目先主義に嵌ったままでいる)ことの証拠のように思われる。実に勿体ないことだが、これでは、既にこのような視点に気づき先手を打っている海外との競争で負け続けるのが必至である。 ⇒ Cf.「iPS備蓄事業、予算減額案 山中氏「非常に厳しい」1118日https://s.nikkei.com/2pnWiXG

f:id:toxandoria:20191128123301p:plainf:id:toxandoria:20191128124311p:plain

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1199893666476675072

f:id:toxandoria:20191128124712p:plain・・・1~6の記述内容は下記URLをクリック!で読めます。https://twitter.com/tadanoossan2/status/1199258765045813251

しかも、AI・IPSらの先端科学技術分野への理解に止まらず、これと似たような意味では、「日本の政治権力トップも、投資家も、経営者も、一般国民も、その悉くが『アナクロ安倍サクラ内閣』のノリで、致命的にピント外れの時代遅れ」となっていることは空恐ろしいバカリである。

ともかくも、重要なのは、このような意味での[(2)デュナミス(潜在性・潜勢(可能)態/du(y)namis/未生の“+価値”(付加価値創造1))]は無論のこと、ツヴェタン・トドロフが説く如く「日常」を最重視しつつ生きた17世紀『レンブラントの時代』の新興市民層の人々が、おそらく[(2)デュナミス(潜在性・潜勢態(可能)態/du(y)namis/未生の+価値(付加価値創造1))]へも気付いていた可能性が高いことを思うと非常に感慨深い思いがする。そして、その理解のためのキーワードが『オランダの光である

(3)17世紀『レンブラントの時代』から続くオランダの光は代替不能なエトノス環境の無限の可能性の象徴

・・・“オランダの光”は、“機械”生産デュナミスと“日常エルゴン”(プレ生産デュナミス)発見の培地・・・

 

・・・画像[オランダの光]は、ピーターリム・デ・クローンの映画『オランダの光』http://urx.blue/zoq3より


Hollands Licht (Documentaire)

 

オランダの干拓の歴史は同時に排水技術と灌漑技術の長い歴史でもあった。当然ながら、いったん干拓で造成された土地は排水しなければ再び水没するし、灌漑で清潔な水を導かなければ生活も農作物も牧畜も成り立たない。また、生活廃水や屎尿などの汚水処理についても特に意識的な取り組みが必要であった。

現在、オランダ南西部に位置するロッテルダム郊外のキンデルダイクはオランダ国内で最も多くの水車が見られる場所として名高い所であり、ユネスコは、1997年、このキンデルダイクからエルスハウトに連なる風車ネットワーク地帯を「世界遺産」に認定している。

この地域にある風車は、中世以来、農地や牧草地に水を導く灌漑や余分の水を排水するための灌漑・排水設備として建設されてきたものであり、現在までに開発されたあらゆる関連技術が保存・活用されている。それは、まさに水と共存してきたオランダの人々の悠久の歴史の積み重ねである。

地下水道や下水道の歴史は古いものではメソポタミアのウル、バビロン遺跡やインダス文明モヘンジョダロ遺跡あたりまで遡るようだが、これら古代の下水道は、その末端が都市の外部の遠くまでは伸びておらず、途中の沈殿池から地下へ自然浸透させたものであった。しかし、ネーデルラントでは現代のような完全に化学的な汚・排水処理システムではなかった(つまり、最終的には海や河川へ流すものであった)にしても、既に中世から汚水を専用に排水する排水溝が作られていた。

・・・「The Arnolfini Portrait」the National Gallery, London, 1434 (Wikipedia

このため、15、16世紀頃のパリ、ロンドンなどの市街で糞尿まみれの汚水が垂れ流され臭気芬々たる有様であった時代に、オランダの都市では、舗装が行き届かなかったため泥まみれではあっても糞尿まみれにはならなかったとされる。ただ、低地であるため絶えず浸水と汚泥の侵入には悩まされており、ヤン・ファン・アイク『アルノルフィーニ夫妻像』(1434/テンペラ画/ロンドン・ナショナルギャラリー)の画中に描いてあるような木靴(靴の上からサンダルのように重ねて履き、道路を歩くときに汚泥を防ぐ)が利用されていた。

このようにオランダはヨーロッパ中で最も港湾土木技術及び排水施設関連の技術が発達していた。そのため20世紀に入ってからもオランダでは真空式集落排水システムや酸化溝構造など近代的な化学的排水処理施設を備えた下水道が世界で最も早く整備されている。また、日本の明治維新・政府がオランダの技術者を招聘して港湾・下水道整備などの近代的な土木技術を学んだことは周知のとおりである。今でも世界の下水道普及率はオランダ98%、イギリス96%、スウエーデン93%、ドイツ92%、カナダ91%、アメリカ71%、日本64%となっており、オランダの普及率が郡を抜いている。

(4)17世紀ヨーロッパ大陸で日常のエルゴンに無限の多様性(可能性)をもたらすステージを提供した出版・新聞ジャーナリズムの概要

Picture of a copy of the Gutenberg Bibl owned by the US Library of Congress  ・・・画像はウィキ(USA)より

先ず出版につい見ておくと、1445年に近隣の都市マインツグーテンベルク活版印刷術を発明するや、途端に印刷・出版の大ブームがヨーロッパ中に湧き起こることになるが、まず他の諸都市に先駆けフランクフルトで「書籍市(ブーフ・メッセ)」が行われるようになり、それが今の「フランクフルト・ブックフェアー」(毎年行われる世界最大の書籍市)に繋がっていることを忘れることができない。

 

アントワープブリュッセルの北方約50kmに位置する、今は人口が約50万人のベルギー第二の都市)にあり、ルネサンスバロック時代にまで歴史が遡る「プランタン=モレトウス印刷所」の活躍も想起すべきであろう。現在、それは「プランタン=モレトウス印刷博物館」として残されている(画像はhttps://blog.goo.ne.jp/hidamari-reading-uk/e/8e9fc8cd0b04bbe224c7d1989d7dcd58より)。

当然、このような動きはネーデルラント(オランダ、ベルギー)、ドイツ、フランスなど欧州の中央部に留まることはなく、それは東欧へも及んでいる。例えば、1468年に“ボヘミア最古の本”とされる『トロヤ年代記』がプルゼニPlzen/今はボヘミア地方の西部にありプラハ、ブルノ、オストラバに次ぐ第4の都市)で印刷され1516世紀ボヘミアの印刷・製本術は非常に高度な技術に到達していた。16世紀のチェコではヤン・ブラホスラフ(Jan Blahoslav宗教改革家)がチェコ語文法の研究を進め、聖書のチェコ語への翻訳も完成させた。

このように16世紀のチェコではフスが形を整えたチェコ語(チェコ人の口語)ボヘミア公用語としての地位を獲得することとなり、フス、ヘルチェッキー、ボヘミア同胞兄弟団、ブラホスラフらの平和主義と高度な精神性が個性的なチェコ文化の実りをもたらした。無論、同様の出版に関わる傾向は欧州全体に広がり啓蒙思想や諸知識の深化・拡大に貢献した。

一方、インキュナブラ(incunabula/凡そ1500年より前に発行された金属活字の低精度の出版物)の時代から「かわら版」的な素朴な刷り物は出ていたが、世界で最初の「ほぼ今の形の新聞」は 1605 年にドイツのストラスブルグでヨハン・カロルス(Johann Carolus/1575-1634)が発行した「Relation aller Fürnemmen und gedenckwürdigenHistorien」とされている。欧州ではその後も各国で多数の新聞が刊行され,それらは欧州の歴史と文化を記録する貴重な資料となってきた(出典、画像(当新聞の表紙ページ)ともにhttps://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Carolus より)

最初のうち、その始まったばかりの新聞の利用者は主に商人であったが(フッガー家らの関係者によるビジネス通信(newsletter)としての利用)、やがて、それは商人以外へと、つまり貴族らの統治者、外交官、軍人、学者、聖職者らへと拡がっていった。元々、彼らは個々に秘密の情報交信の手段を持っていたのだが、次第に彼らも商人が通信員間の情報連絡の手段として使い始めた新聞を利用するようになったと考えられる。

フランスではブルボン絶対王政の統治(以降、1789年まで続くアンシャンレジーム)下でルイ13世の時に最初の定期刊行物(月刊、週刊、最後は日刊となる官報的性格の新聞)である「La Gazetteが創刊され(1631)、これが1789年の大革命まで続いた(発行部数は17世紀を通じ約1,200部)。民間では1777.1.1から1789年の大革命まで続いたフランス唯一の日刊新聞「Le Journal de Paris」がある(@フランスのジャーナリズム、http://pweb.cc.sophia.ac.jp/s-yuga/gakubu/FJ2lec15.htm#07)。

一方、フロンドの乱/1648 - 1653」を契機にパンフレット新聞「クリン」が発行され(おそらくフロンドの乱が象徴するアンシャンレジームの矛盾に対する反動?/補、toxandoria)、これがフランスの政治ジャーナリズムの始まりとされる。やがて、文学的ジャーナリズムや『学者新聞(Journal des Savants)』ほか多くの小プレスが現れるが、その頃からモラリストの活躍が活発になったと考えられる(@同上/モラリストの活躍、の部分はtoxandoriaの補足)。

<参考>16~17世紀ころの識字率についての考え方・・・全ての人々を統計対象とする、現代的な意味での識字率は不明であるが、例えばここで取り上げた「貴族らの統治者、外交官、軍人、学者、聖職者ら」を対象に考えれば非常に高度な識字率であったと思われる。また、ネーデルラントのオランダ共和国のように経済力を身につけた市民層が勃興した地域では、当然、フランスのモラリスト啓蒙思想(黎明期)の影響も受けつつ、平均的な識字率が高まっていったと思われる。因みに、記録の残っている都市部の男性に限定すれば、高い識字率を誇る都市は印刷技術の発明以前より存在しており、例えば16紀末のヴェネツィアでは33%ほどあったし,1530年のヨークでは20--25%ほどあった。が、やがてこのヨークの男性識字率は、16世紀末までには41%へと跳ね上がっている(参照資料↓★)。

★『hellog~英語史ブログ』16世紀イングランド識字率http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2017-12-02-1.html

・・・

なお、16~17世紀における欧州の新聞をめぐり非常に重要と思われる新聞の「そもそもの意義と役割」についての情報があるので、その内容をアレンジしつつ以下に部分転載しておく。[情報源:《研究ノート》ドイツ語圏活字メディアの歴史について ―新聞を中心に―北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院 教授/江口 豊 https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/53603/1/JIMCT_1701_eguchi.pdf・・・

・・・オランダ(1618~1620)、イギリス(1620~1622)、スウェーデン(1624)、イタリア(1643)と、ヨーロッパ各国に続々と「週間」新聞が広まった。当時の新聞の普及に関しては、平均すると350部から400部程度が印刷・配布部数であったこと(例外的に1,000部以上の多数もあるが)、また郵便での配達、独自の配達員の配達、売店・印刷所での手渡・販売の手段などがあったことが知られている。

・・・その後、新聞は一週間に一回から複数回へと刊行のペースを上げていき、1650年にドイツの都市ライプツィヒで日刊紙「Einkommende Zeitungen」が登場している。17世紀の段階ですでに読者層も「エリート層たる宮廷関係者、高級官吏、軍人、聖職者、学者」から「市民層たる医師、技術者、詩人、一般商人、兵士、船員など」に拡大したとされる。

・・・とはいえ、新聞の年間購読料は比較的高価(ほぼ職人の一週間分の賃金に相当する)なものなので「講読サークルが結成され二桁の構成員が共同で講読し分担する形がとられていたことも報告されている。(因みに、この時代の新聞が非常に高価格であった理由の主な理由は部数が少なかったのに加え、客観的な情報が拡散することを懸念した統治者側が情報統制の目的で,何らかの理由付けの上で 高率の税を課したことに因ると思われる。つまり、初めは検閲と威圧を兼ねスタンプを押していた?(Ex.18世紀初頭~の英国の印紙税など(委細、後述)←補、toxandoria)。

・・・17世紀後半には(北ドイツの)ハンブルクアルトナでは名望のある大学出で資質の高い人物が新聞事業で活動し始めている。情報に富んだ興味深い新聞を製作するためには、当然のことながら完璧に読み書きができるだけではなく、外国の通信や新聞を加工処理できるだけの外国語の知識をもたねばならなかった、と指摘する研究者もいる。

・・・17世紀に登場した新聞は、それに続く18世紀以降の量的な拡大・膨張にともない報道の質にも大きな変化が現れ始めた。例えば「18世紀後半で一週間にのべ30万部の新聞が読まれたが」、それは、「聖書とキリスト教の公教要理を除けばもっとも読まれた」ものであることを指摘した研究もある。まさにこうした状況こそ「新聞が啓蒙主義の時代を準備した17世紀の最も重要な媒体の一つだ」という指摘がなされる理由である。

・・・というのも、世界に関する知識と世界の認識に役立つ専門的な情報をタイムリーな時間経過の中で定期的・継続的に新聞が伝えることにより、国務や軍事を司るメカニズム、すなわち「ヨーロッパに関係する諸事件の関連を理解させる」というプロセスのなかで読者層の根本的変質を促したからである。1637年には「普通の人間が新聞により統治者を批判することを覚えたのだ」という記録がのこっていることが確認されている

 “曲解”された“逆説の風刺”?マンデヴィル『蜂の寓話』の真意を探る

 (1)『蜂の寓話』が出版された18世紀前半の英国(初期啓蒙主義)の空気

フランスでは「フロンドの乱1648 - 1653」を契機にアンシャンレジームに亀裂が入り始め、やがて、その17世紀の半ば頃からフランスに政治ジャーナリズムが出現しており、同時に文学的ジャーナリズム、『学者新聞(Journal des Savants)』など多くの小プレスも現れたことは前節で触れた

f:id:toxandoria:20191203043635p:plain

重要なのは、同じその17世紀の半ば頃にフランスでモラリストたちが現れており、彼らが、そもそもイギリスの影響を受けて本格的に始まったと見るべき18世紀のフランス啓蒙思想(J.J.ルソーら)を深化させる先駆けとなっと思われることだ。マンデヴィル『蜂の寓話』(叢書ウニベルシタス)が出版された18世紀の初頭の頃は、そのような意味でイギリスとフランスの啓蒙思想が往還的に影響し合っている時代(啓蒙主義前期)であったということになる。

このような18世紀前半頃のイギリスにおける啓蒙主義前期の空気に満ちた時代のエトノス感を更に補強するため、歴史的な出来事について少し触れておくことにする。

・・・

三回におよぶ海戦中心の英蘭戦争(17世紀後半)で、英国が勝利しオランダは海洋権益を失いその黄金時代(レンブラントの時代)が終わる。しかし、名誉革命(1688)の後には縁戚関係からオランダ総督ウィレム3世イングランドウィリアム3世として迎えた。

  • 産業革命をめぐる状況・・・1709:ダービーがコークスによる製鉄法を発明、1710:ニューコメンが炭鉱での排水用の気圧機関を発明、1733:ジョン・ケイが飛び杼を発明、ハーグリーブスがジェニー紡績機を発明、アークライトが水力紡績機を発明、ジャーム ・ワットが蒸気機関を改良、etc

f:id:toxandoria:20191130032554p:plain

White's Coffee House formed part of William Hogarth's series The Rake's Progress CREDIT: 2005 GETTY IMAGES/HULTON ARCHIVE https://www.telegraph.co.uk/travel/destinations/europe/united-kingdom/england/london/articles/surprising-history-of-london-chocolate-houses/

  • 17世紀の半ば以降のロンドンでは、18世紀がコーヒーハウス(新聞など現代的マスメディア活動の揺籃の場)のピークとなり、広く庶民へ行き渡る「新聞」情報の普及が見られるようになっていたが、その反面で言論の矛先になる権力者側からの反動もあって、印紙税(言論規制のツール)などをめぐり激しい攻防が繰り返されていた。

https://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/kiyou/65/65-ch10.pdf

新聞の刊行をめぐる状況>・・・日刊新聞「London Daily Courant」が1702~発行/政党新聞、政党機関紙の登場(政論新聞時代の幕開け)/エッセーペーパー:文学的刊行物(literary periodicals)が刊行/1712~印紙税:Tax on Knowledge(知識に対する課税)が導入、1725~捺印税:Stamp Actが導入、1731~月刊雑誌 Gentleman's magazineが刊行、1738~議会での討論内容の掲載が禁止、1771年~今度は、議会報道が許される、etc


f:id:toxandoria:20191128170922p:plain
https://twitter.com/tadanoossan2/status/1198210327290105858

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1198404264462180352

【参考資料:QT/上の時代に続く、19世紀初頭~における「英国議会」Vs「新聞ジャーナリズム」なる激烈な“国民主権、国家に次ぐ第三権力たる新聞の批判力を巡る覇権闘争史”の一コマ

・・・一強アベ政権下の日本の最大の危機は、国民とジャーナリズムが“此の当然の主権を放棄している”こと!・・・

・・・1819年、議会は聖ピーター教会広場で開かれた政治集会を弾圧し(ピータールーの虐殺)、言論弾圧六法(Six Act)で統制を強化、数年のあいだに125のラディカル・プレスが罪に問われ、無害な新聞には補助金が与えられた。これによって「品のよい」新聞『タイムズ』の成長と「20年代の政治的平穏」が訪れる。

・・・だがラディカル・プレスは1830年代によみがえる。その象徴となった1ペニーの『プアマンズ・ガーディアン』(1831-1835)をはじめ、違法な新聞は5年あまりで500種以上、1日7万部以上にのぼった。これは合法な新聞を上回る数字であった。スタンプ税法反対、労働闘争、選挙法改正を掲げた運動は、1830年代以降の改革を先導する。第1回選挙法改正(1832)、工場法制定(1833)、救貧法改正(1834)、都市自治体法制定(1835)、そしてスタンプ税法下の広告税引き下げ(1833)、スタンプ税と用紙税の引き下げ(1836)と、労働福祉政策が相次ぐが、その改革の不十分さは逆に労働者階級の意識を高め、その後のチャーティスト運動の盛り上がりにつながっていくことになる」(伊藤[2014:95-96]) [種村 剛:社会情報学の基本資料、新聞、http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/3S/si_newspaper.html]より部分転載。

・・・

オランダ・ロッテルダム生まれの脳神経系統を専門とする医師マンデヴィル(Bernard de Mandeville/1670 - 1733)は、そのような時代の空気が流れる18世紀初頭のロンドンヘオランダから移住し(そもそもは英吾を学ぶのが目的であったとされる)、開業医(今で言えば心療内科医?/ライデン大学で哲学の学位と医学博士の学位を取得)となり、そこで結婚し、遂には永住することになった。

(2)『蜂の寓話』は「エルゴンへの気付きと指導層の覚醒を促す“逆説の風刺”」であると見るべき理由

 (マンデヴィル『蜂の寓話』の解釈で主流となっている考え方/当記事は、敢えてそれへアンチ・テーゼのスタンスを採る)

 

https://twitter.com/GoofySmile4/status/1197362574758531072

悪徳こそが、実は経済活力の充実・持続発展と、当時17~18世紀のマーカンティリズム(重商主義mercantilism/典型的な自国第一の保護主義)時代の国力の伸長のために、そればかりか慈善(社会厚生)のためにすら十分に役立っている”という事実について、それを人々が直視し理解できるようにとマンデヴィルが皮肉を込めて風刺的に書いたものだ、と一般的には理解されているようだ。普通に言えば、もっぱら“善”だけを評価せず、たまには“悪”の効用の側面にも目配りが必要だ!と辛辣に(しかも、シニカル(つまり、やや遠慮がち)に?苦w)皮肉ったということになる。

 

f:id:toxandoria:20191128172125j:plain

そして、その何よりの証拠が、この『蜂の寓話』の副題が<私益すなわち公益>と、当時の常識の真逆になっている(無論、今も建前上はそうであるはずだが?)ことだ。驚くきべきことに、今の日本ではこのこと(マンデヴィルの私益すなわち公益)をマジで率先実行しているファッショ・スタイルのアベ一強政権が肩で風を切りつつ一強独裁支配しているようだ。w

 そして、“人間の内心に潜む私益(ここでは、私益と自愛が究極の悪徳だとされている!)をはじめ凡ゆる悪徳、すなわち功利、蓄財、あるいはこれらと全く異質な“他人を喜ばす忖度と諂い(おべっか、追従)”が、それだけで毅然とした自負心までもがマンデヴィルによれば悪徳に入る。しかも、今の安倍政権の「我が世の春を謳歌する日々で舞い上がる」が如きあまりにも醜悪(淫獣リバイアタン/レヴィアタン)化した一強ブリを此処まで見せつけられると、マンデヴィルが自負心を悪徳のジャンルに入れたことが驚くべきほどの慧眼に思えてくる!w

例えば、米田昇平・大阪産業大学教授(経済思想史)は、「マンデヴィルは宗教の羈絆を逃れ,功利主義的な社会認識を徹底しようとしたが、しかし他方ではアウグスティヌス主義に基づくリゴリスム(道徳的厳格主義)の人間観に囚われていたから、人間の悪が結果的に公共善をもたらすという逆説を弄せざるを得ない、それゆえ彼らの論説にはおのずからシニシズムの影がまとわりつくことになる。」と述べている(出典:経済学の起源とアウグスティヌス主義―17 世紀後半のフランス思想を中心に―米田昇平、https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshet/51/2/51_68/_pdf/-char/en)。

 そこで、自負心についてである。ここでは、一応、マンデヴィルの主張をそのまま書いておいたが、さすがに自負心を悪徳のジャンルに入れるのは可成り難しいと思われる。しかし、敢えてマンデヴィルが「自負心」を悪徳の仲間へ押し込んだのは、そこに何か隠された意図があるからではないか、と思われる。

(3)ピエール・ベール(啓蒙思想の先駆け/おそらく遥かに時間を先取りしたエトノス観の先駆者でもあった?)の系譜としてのマンデヴィル 

マンデヴィルに大きな影響を与えたともされる『歴史批評辞典』ほかを著し神学的な歴史観を懐疑的に分析した(無神論者ではなくユグノーピエール・ベール(Pierre Bayle/1647 - 1706/哲学者・思想家)は欧州「啓蒙思想」の先駆けとなった人物として知られる。因みに、わが国で初めて本格的にピエール・ベールの人物像などを紹介したものに、下記(◆)「メゾー,ピエール・デ著書の翻訳」(野沢 協/訳:叢書ウニベルシタス)がある。

 

◆ピエール・デ メゾー 、野沢 協 ・訳『ピエール・ベール伝』(法政大学出版会)・・・Pierre des Maizeaux, also spelled Desmaizeaux (c. 1666 or 1673 – June 1745), was a French Huguenot writer exiled in London, best known as the translator and biographer of Pierre Bayle.https://en.wikipedia.org/wiki/Pierre_des_Maizeaux

・・・メゾー,ピエール・デ(1673‐1745):フランスのオーヴェルニュ地方に牧師の子として生まれ、宗教迫害により12歳でスイスへ亡命、ジュネーヴ大学で学ぶ。卒業後、オランダを経てイギリスへ渡り、ロンドンに定住。途中、1699年にロッテルダムでピエール・ベールと会い、それ以後ベールが死ぬまで頻繁に文通して、晩年のベールの親友だった。イギリスではジャーナリスト、出版人として活動し、18世紀初頭からフランスやオランダの新聞雑誌にイギリスの文芸・思想を系統的に紹介、英仏間の文化交流に大きな役割を演じた。http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-00816-0.html

 ・・・

 第2章でも少し触れた平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)/京都大学・経済論叢:第89巻‐第2号』によると、ベールはシャフツベリー(その委細は次節で)と同じく「宗教、理性、人間性一般」の三者は決して対等に適合し得るものではなく、いわば現代的なコンシリエンス(例えば、第2章で触れたG.シモンドン『個体化の哲学』など)の概念で言えば「異なる系が相転移する」ような関係性ということであった、と思われる。

おそらく、このことを人文・社会・科学・AI関連知などが深化したと言う謂いでの“現代的”な理解で更に読み直すと、「宗教、理性、人間性一般」の三者は、何らかの表象・概念の統合であるから、三者を優劣の比較で認知できるものではなく、これは一般の生物ならぬヒトの意識ゆえの賜物であるということになるかもしれない。

つまり、それはエトノス観念に置き換えることが可能となるはずである。同じく同論文によれば、重要なのはオランダ人でありながらロンドンへ移住(定住)したマンデヴィルと、それとほぼ同時期にオランダへ短期滞在した経験をもつシャフツベリーが、共に、そのようなピエール・ベールの思想の影響を受けていたらしい、ということである。

ところで、ピエール・ベールの思想で絶対に押さえるべきと思われる枢要なポイントは先ず宗教についての個所であろう。上掲の平井俊彦/論文によれば、ピエール・ベールは「経験と啓示宗教は全く異なる領域であり、例えば旧キリスト教(当時のローマ・カトリック教会)は原罪説や恩調説を人間性の自然に強制するに過ぎないが、一方で人間の本性は自然に根ざしている。」と述べている。

 しかし、ユグノー(改革派)のベールが実は無神論者だったと見るのは短絡である。そうではなくベールは「宗教、理性、人間性三者は何らかの表象の統合であるから三者を優劣の比較で認知はできない」と考える宗教的自由主義リベラリズム)であったと思われる。又べールは「人間性の自然」の表現で自然の一部の関係性の個体における一回性の現れが人間性の正体だとも説明する。おそらく前者は政教分離への長い道程の端緒で、後者は同じく基本権のルーツになったと考えられる。

だからこそ、ピエール・ベールは「これら種々の人間性の多くを占め、かつこれら人間性の諸相が浮かぶ海の如く流動的なプラットフォームである感情の作用」を最も重視したと考えられるのだ。そして、オランダでの生活と研究の経験によって、かつ何らかの交流の可能性すら窺われるマンデヴィルとシャフツベリー(委細は次節で書く)がピエール・ベールの「感情の作用を最も重視する」考え方を深く共有していた可能性が高いと思われる。

しかし、同じピエール・ベールの人間性(自然の一部としての)の要とでも言うべき「感情の海」を共有しつつ、マンデヴィルは自然の一部である人間性の「悪」の成分の分析へ、シャフツベリーは「善」の分析へと、何かを契機として、夫々の関心が異なる方向へ傾斜することになったようだ。

おそらく、その契機となったのは、シャフツベリーの貴族の系譜ゆえの「上からの美学」的な、つまり抽象論的・概念論的な視座であり、マンデヴィルの場合は生粋のオランダ人としての(それはそろそろ黄昏の時ではあったにしても)、あの栄光に輝いた時代(17世紀・レンブラントの時代)の残照の中で『日常のエルゴン=±を併せ持つプレデュナミス潜在性・潜勢態』という<活気の土壌>を経験したことではなかったか?と思われる。

因みに、それはおそらくピエール・ベールが気づいていたと思われる、現代で言えば「エトノスorコンシリエンス」的な視座から、つまり「人文・科学両知を統合的に適用しつつ内外自然のトータルまでをも取り込んだ広角の視点」から大きく俯瞰すれば、これからも啓蒙思想史のなかで新しい意味が発見され続けるのではないだろうかということである。

 啓蒙思想の先駆けと見なされるピエール・ベールがフランスで活躍したのは17世紀の後半であるが、それはフランスのアンシャンレジームに初めて動揺を与えることとなった「フロンドの乱/1648 - 1653」を契機に台頭した初期モラリストの時期と重なっている。モラリストたちの思考の特性は「定型化した論証や規範的な言説」を否定する点にあるが、それはベールの中世的・神学的な歴史観(神の意思や神の恩寵に因るドグマ)を否定する立場とほぼ同じである。

つまり、現実の世界は「キリスト教の定型化した論証や規範的な言説」で全ての説明がつくほど単純でないことが、アンシャンレジームの動揺や科学革命による知の深化・多様化によって理解されるようになってきた。同時に、神の視座から解放されることで、新たに歴史的・政治的に共通した歴史的・普遍的な構造があり得ることにも気付く人々が次第に増えていった。

しかし、これら歴史にも裏付けられた普遍的な概念(理想)と、今は普遍的と思しき国家制度(政体)であっても永久に完全無欠ではあり得ないので、絶えず、個々の現実的な、より厳しいリアル事象とエトノス観念の深化に照らし続ける必要がある。

このことに逸早く気づいたのが英国政治の動向に関心を向けアンシャンレジームを批判して均衡・抑制を重視する「権力分立制」を提唱したのがモンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu/1689 - 1755)である。そのためモンテスキューは普遍理念の次元を一気に高精度化することに努め、高精度の制度として「三権分立」(権力分立の典型)を着想した。

f:id:toxandoria:20191129041202p:plainf:id:toxandoria:20191129041329p:plain

つまり、モンテスキューにとり「三権分立」は只のお飾りの制度ではなく、喩えれば絶えず酷使されるべきエンジンの如き存在であるのだ。そして、国民も、主要ジャーナリズムも、肝心の政権政党の立場の政治家たちも、あるいは国民に奉仕する公僕であるべき官僚(司法・官憲もろとも)たちまでもが、ことごとく此のモンテスキューの根本(法の精神)を忘れ去っているのが「レンブラントの時代ならぬ?アベ様一強の時代」とかで我が世の春を謳歌しサクラ見物でうつつを抜かしている?、そして多数派層の国民が、何故か?そのアベ様へひたすら忖度し続けている>のが今の日本の現実(virtualならぬnominal reality?w)であるようだ(virtual reality=実在はしないが実質的に機能する意味での現実/nominal reality=名バカりの現実)。

風刺『蜂の寓話』の標的は、シャフツベリー「モラル・センス」を「社交術(忖度)」で弄び、「私益」のためそれを政治利用する指導層の怠慢

・・・シャフツベリーはモラル・センス派の創始者だが、マンデヴィルは英国の指導層を仏アンシャンレジームに匹敵する時代遅れ(日常エルゴンと“17C機械”生産デュナミス潜在性・潜勢態の無視)と見ていた可能性が高い。・・・

(1)マンデヴィル『蜂の寓話』の悪徳が意味すること(先端知に照らした解釈)

ニッコロ・マキャベリ(Niccolò Machiavelli/1469 - 1527)の『君主論』によれば、君主に求められる資質は少しでもフォルトゥナ(運命/Fortuna)に先手を打てる深い洞察力に裏付けられつつ決断し、それを確実に実行する力、つまりヴィルトゥ(virtu)であり、そこで更に必須となるものが、その実行力を保証する基(もとい)である「自負心」が重要となるという訳だ。

いわば、「自負心」とは「ヒトの内外の自然の本性において優勢な悪のパワーと、引けを取らずに対峙できる、換言すれば、その悪をも飲み込み滋養としてしまう先見性と実行力が君主たる人物の必須条件」だということになる。しかし、そこには「±、又は善・悪の両者が併存する“オランダの光”の謂いでのエルゴン(プレデュナミス潜在性)」の観念が未だ存在せず、その意味でのエルゴンの理解はマンデヴィル『蜂の寓話』の執筆を待たなければならなかっ、と考えられる

そして、その自負心とは「美徳をあわせもつ強い意志」のことであった。その美徳(virtue)には徳(性)・善・長所・貞節などの意味であるが、関連語virtuには“美術品”の意味が、同じくvirtualには“現実に存在しないが機能・効果としては実質的に存在する(今はIT用語としての“仮想現実の“仮想””→virtual reality)”および“虚な”の意味がある。因みに、virtualの反対語はnominal(名目上の)の意味である。

しかし、同じ18世紀初頭の啓蒙主義前期の空気を共有しつつも、マンデヴィルがシャフツべリ(第3代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパー/Anthony Ashley Cooper, 3rd Earl of Shaftesbury/1671 – 1713/哲学者)らと決定的に違っていたのは、マンデヴィルが啓蒙期の国家発展の「動因たるべきものへ的確に照準を定め点火し、その後の稼動の効果的な促進の見届け」に責任を持つべき支配層(特に立憲君主国の最高権力者)に此のマキャベリの意味でのヴィルトゥ(君主の資質条件の読み替え)を強く迫る点にある、と考えられる

おそらく、マンデヴィルはこの「美徳をあわせもつ」という自負心の性質に因って、「自負心」に纏わる善とも悪とも言い難い“両義性”について気づいていたのかもしれない。無論、それが19世紀後半~19世紀の博物学フンボルトの用語「エルゴン」の両義性(±を併せ持つプレデュナミス潜在性)の意味として捉えていたかどうかは定かでない。いずれにせよ、このことはマンデヴィルが“『蜂の寓話』(叢書ウニベルシタス)の不評に対する弁明”のために書いた『続・蜂の寓話』を読めば納得できるはずである。

つまり、この『続・蜂の寓話』は<正編が社会に与えた影響があまりにも大きく予想以上に批判が拡大したため(具体的には、出版された1723年に正編を誹謗する(『私益すなわち公益』などと主張し善良な人々を誑かすのは何ごとか、とばかりに!←<注>現下の日本なら、さぞかし『アベ様らの公費での私腹肥しすなわち公益』とは何ごとか!であろうか?w)C閣下あての書簡(ミドルセックス州大陪審が出したもの)の内容が「ロンドン・ジャーナル」に掲載されたこと>が契機となり、それへの弁明として書かれたものであった。

従って、マンデヴィル『蜂の寓話』は矢張りあくまでも悪徳のエルゴン的なもの(経済的な付加価値を持続的に創造する絶大なる、±が共存する潜在力の宝庫であること)を前面へ押し出しつつも、シャフツべリの楽観的で予定調和的な自然観がベースの世界・社会観(啓蒙主義前期の空気の主流)に対し、ホッブス自然権」と「オランダの光」(自身のオランダでの“日常”経験)を参照しつつ、自律的な美学を伴うヴィルトゥオーソ(virtuoso/女性形virtuosa/傑出した演奏の達人)への脱皮を求める、いわば産業革命期の「蜜蜂コロニーならぬ人間社会」に相応しい指導層の生き方を求める、そのような意味で逆説的な批判の書であった」と見るべきではなかろうか・・・以上のために参照した資料:内田義彦(経済学者)「社会認識の歩み」、ほか http://classic.music.coocan.jp/_book/shakaishiso/uchida/machiavelli.htm

f:id:toxandoria:20191129043350p:plain因みに、フンボルトの用語「エルゴン」の両義性(善と悪、又は ± を併せて持つプレデュナミス潜在性)との関連で無視できないのが現象学的「主観性」研究の分野で世界をリードする研究者、ダン・ザハヴィ(Dan Zahavi/1967‐ /デンマークの哲学者・現象学者)の『誠実さを蔑む“悪”魔的主観性の病理』という問題提起である(画像はウイキ)。

言い換えれば、これは<現代の世界で問題となっている、極右化のトレンドが共有する一般社会などの人間集団における内集団バイアスによる「無媒介的認知的自己意識」増幅の問題>ということになる。そして、「無媒介的認知的」とはほぼ「無意識」に相当

 

する概念と考えて間違いではないが、実際には、それよりも遥かに広大な概念であり、敢えて乱暴に比喩的な表現を使うならば。それはヒトの「内外エトノス環境下における、意識化される寸前の自己意識」ということになるだろう。

ダン・ザハヴィ『自己意識と他性/現象学的探求』(叢書ウニベルシタス)の訳者、中村拓也氏(同志社大学文学部准教授)の同書“あとがき”によれば、特にザハヴィの<無媒介的認知的自己意識(先反省的自己意識)>は、往々にして哲学的思考などで見られる難解な概念の捏造ではなく、それは体験的な偏在性として誰にでも日常的に起こり得る主観的「自己—顕現」(個々人の内感フィールドにおける自己覚醒)レベルの問題、つまり個々人の「主観性の核心」を抉り、それを『感情の現象学』的な立場で説明し得る堅牢な言葉である

例えば、近年、世界的に問題となりつつあるネオ・ナチズムなど極右政治勢力(欧米各国の極右派、日本における日本会議(周知のとおり、それは靖国顕幽論の取り戻しと国家神道への回帰を謀る安倍自民党政権の守護神!)などが急速に台頭しつつある政治状況の深層には、M.アンリの「情感の現象学」のテーマとも深く関わる問題が潜む可能性があり、特にザハヴィの<無媒介的認知的自己意識>が重要なテーマとして注目されている(《注記》無媒介的認知的は、言語等の意識的コミュニケーション介在が存在しない次元、いわば其れ以外の多様な回路でエトノス環境の影響下にある、無意識等の認知作用のこと、とも言える/この側面から見ると、この概念は言語哲学の選言説(論) or マクダウエル『リアリズム倫理』らの問題とも深く共鳴している。Cf.両者の委細は下記↓◆、参照)。

コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然)/付、選言説とは?https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

因みに、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの作品「浮世の画家」が、実は、戦前・戦中期に日本全体を覆っていたアベ的なもの、つまり<怪奇極右幻想(追憶のカルト)なる特異な政治・宗教観念である『靖国顕幽論』>に潜む、戦前・戦中期日本人の心の闇を抉ったものである。

そして、その心の闇の奥に鎮座するのが、同じくイシグロの作品忘れられた巨人」が言うところの“復讐の先取りという感情の最深部の底流、いわば無媒介的認知的自己意識”の病理である。それは妄想的愛国心と復讐の先取りの情念に溺れる記憶の闇の奥底に揺蕩う、甘美で浪漫主義的なものでありつつも、実は、奇怪で異常な感情の流れであったということだ。

これは、古典的デカルトな立場での研究は絶対に承認しようとしないことであるが、ザハヴィは<ある一定のエトノス的な、別に言えば『大文字の“生”』の影響下にあるという意味で“先反省”的な複合性と多様性を、自我の「生」(個々の生命力の核心)に対する作用因として、ヒュレー(質量)分析の手法で帰属させたM.アンリの実質的現象学(情感の現象学/委細、↓★参照)を高く再評価している。更に、近未来を見据えるザハヴィは、無意識、催眠、記憶、倫理学・美学(レヴィナス、ガダマー、ディーター・ヘンリッヒなど)、先端AI研究、脳科学などもその視野に入れつつある。

★M.アンリ『情感の現象学』から見える『感情の政治学』の可能性 https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20171109/p1

ともかくも、これらコンシリエンスな先端知の成果なども十分に取り入れつつ、約300年前にマンデヴィルが“逆説の風刺”『蜂の寓話』で提起していた、「人間社会の無限の可能性を暗示するエルゴン(フンボルトの用語で言えば)の問題(源流は“オランダの光”の中における『日常の意義』の発見にある!)への気付きと新自由主義が「善と悪」に関わる現実を無視した虚偽(エセ経済理論)であることの暴露、およびネオ・ファッショへ走りがちな指導層の覚醒を促すことの重要性」を再考すべき時代に入ったといえるのではなかろうか。

(2)マンデヴィルが標的としたシャフツベリーのモラル・センス

・・・画像はウイキより。

・・・シャフツベリー『モラル・センス』とその底流となる多様な思潮・・

 

『続・蜂の寓話』の“訳者あとがき”を参照しつつ、委細は省くがシャフツベリー「モラル・センス」の要点を、下に箇条書きしておく。

前提:性善説(マンデヴィルの性悪説と対称、とされる)に基づく利他主義

人間の行為を規定する感情の分類:

(1)自然感情・・・利他的・生得的である。

(2)自己感情・・・利己的であるが、自然感情とバランスを保てる程度のものなら、悪徳とは言えない。このバランスを取っているのがモラル・センス。正邪の感覚と良心を先天的に備えている。モラル・センスに支えられる人は「宇宙全体と調和している。その調和的な世界は倫理的なので、道徳はキリスト教世界から区別され自律的となる。一方、神は宇宙に内在する原理となってスピノザ的な汎神論の世界となり、神的生命力にあふれる統一体をなしている。

(3)不自然感情(人間嫌いなど・・・論外)

 ・・・

ここで視点を変え、近代美学史の観点からシャフツベリーを俯瞰すると更にその特徴、つまりマンデヴィルとの違いが際立ってくるのではないかと思われる。それと同時にマンデヴィルがシャフツベリーの「モラル・センス」(端的に言えば精密な抽象論から成る!)を批判の標的とするに至った事情、いわばマンデヴィルの「情念のリアリズムを重視する先進的な心」に宿った、一種の危機意識のようなものが理解できると思われる。

そして、先ず「実は、シャフツベリーがJ.ロック(John Locke/1632 - 1704/英国の哲学者、イギリス経験論の父/その“王権神授説”否定を基本とする思想(社会契約・抵抗権など)が名誉革命、仏大革命、米国独立宣言へ多大な影響!/因みに、シャフツベリーはロックの家庭教師!)と共に18世紀イギリス啓蒙思想の始まり(初期啓蒙思想)を画した重要な人物である」ことを認識する必要がある。が、シャフツベリーの知名度が日本ではあまり高くないようだ。

しかも、シャフツベリーとは異なる意味で17世紀のオランダにおける『日常』(レンブラントの時代)の経験から、マンデヴィルは、同じように見える英仏の啓蒙思想(既述のとおり両者は特に仏のモラルセンスやピエール・ベールの影響を受けた)でも、マンデヴィルの「情念の作用を重視する、下からの美学的な視点」から見ることで「モラル・センス」には独特の脆弱性の空気が漂うことを嗅ぎ取っていた、と思われる

更に、シャフツベリーについては、もう一つ押さえておくべきことがある。それはシャフツベリーの「モラル・センス」が、フランシス・ハッチソン(1694– 1746/愛蘭出身の哲学者/スコットランド啓蒙思想の祖、モラルセンス理論を大成)、アダム・スミス、ルソー、ディドロ、レッシング、カント(カントの場合は、半ば批判的であったという意味合いだが)らへも影響を与えているという点である(要参照文献↓◆)

◆満足する理性:カント実践哲学への感情論的アプローチ/竹山 重光(和歌山県立医科大学医学部  教養・医学教育大講座。准教授)http://www.wakayama-med.ac.jp/med/lasphieth/zettel/manzoku.pdf

なお、このマンデヴィルの「下からの美学的な視点」は、(一般にこれは殆ど無視されているようだが?)『続・蜂の寓話』の<第一の対話>に登場する女性、フルヴィアの言葉(対話でオランダ絵画、おそらくレンブラントフェルメールらについて語る内容)の中に現れていると思われる。

ところで、ニッコロ・マキャベリが「君主に必須の資質であると見たもの「ヒトの内外の自然の本性において優勢な「悪」のパワーと引けを取らずに対峙できる、換言すれば、その「悪」をも飲み込み自らの滋養としてしまう先見性と実行力が君主たる人物の必須条件」としての「自負心」であったしかし、そこには「±、又は善・悪の両者が併存する“オランダの光”の謂いでのエルゴン(プレデュナミス潜在性=人と自然の無限の可能性)」の観念は未だ不在であった

そして、「エルゴン(プレデュナミス潜在性)」なる言葉こそ使っていないが、それに匹敵する“オランダの光=市民生活の日常”の意味をリアルに経験し、仮にそれを「悪」のジャンルへ入れざるを得なかったとしても、その「エルゴン的なもの」の重要性を深く理解していたのがマンデヴィルであったと思われる。だからこそ、マンデヴィルはそれと対極に置くべき、シャフツベリーの「上からの美学」的な「モラル・センス」を標的として、厳しく批判するために『蜂の寓話』を書いた、と思われる

 つまり(繰り返すが)、マンデヴィル『蜂の寓話』は、矢張りあくまでも悪徳のエルゴン的なもの(経済的な付加価値を持続的に創造する絶大なる、±が共存する潜在力の宝庫であること)を前面へ押し出しつつも、シャフツべリの楽観的で予定調和的な世界・社会観(初期啓蒙主義通奏低音の一部であった)に対し、ホッブス自然権」と「オランダの光」(自身のオランダでの“日常”経験)を参照しつつ、自律的な美学(下からの美学)を伴うヴィルトゥオーソ(virtuoso)への脱皮を求める、いわば「レンブラントの時代」~産業革命期初期の「蜜蜂コロニーならぬ深く変容する人間社会」に相応しいモラルに基づく指導層の新しい生き方を求める、そのような意味での逆説的な批判の書であった」と見るべきではないか。

一年足らずの時間ではあったもののシャフツベリーも「17世紀オランダ(レンブラントの時代)」での『日常生活』の経験から、ある意味では「美徳と悪徳があらゆる国とあらゆる時代にわたり偏在しており、それが永続的な実在である」という認識もマンデヴィルとほぼ共有していた筈だ。

また、この美徳と悪徳が「感情」と深く通底するものであると言う理解もほぼ共有しており、特にこれはオランダ時代のピエール・ベールの大きな影響に因るものであったと考えられる。しかし、更に仏モラリストの「より広角な視座」の影響がマンデヴィルへ与えた影響は無視できないと思われる。おそらく、この辺りがマンデヴィルとシャフツベリーの分かれ目かもしれない。

つまり、マンデヴィルはピエール・ベールに加えラ・ロシュフコー(La Rochefoucauld/1613 - 1680/仏のモラリスト)の影響を大きく受けていた(@平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)/既出)。ラ・ロシュフコーはフランスの非合理主義的な心理(つまり、感覚・感情・情念の作用)を重視する伝統から「いかにも知性ぶる人間の背後に潜む情念の大きさ」に関わるクローズアップ光景を抉りだし、これに鋭く鮮烈な皮肉を浴びせかける手法の作品を得意としたモラリストである。

(3)マンデヴィルのシャフツベリー批判の核心は「モラル・センスを悪用する指導層の怠慢」への批判ということ

 ・・・そもそもマンデヴィルの標的は“名ばかりモラル・センスと社交術(忖度)”を盾に私腹(私益)を肥やす指導層とお仲間たちであった筈だが、建前上であるにせよモラル・センスを評価して(特に社会の羅針盤と見なされていたキリスト教の絡みでそう強いられ、それが固定観念化して)いた一般多数派層をも敵に回してしまった。・・

ところで、たまたま「フランス語の習俗les mœursは,「善い方向もしくは悪い方向へ向かう人間の習慣」という語義に限定すれば,17世紀から現代まで 300 年以上定着した意味を持ち続けるように見える語である。」という興味深いくだりを下記論文★の中に発見した。

★フランス近代思想における習俗と自然法 : ジャン・バルベイラックの「習俗に関する学science des moeurs」田中大二郎一橋大学社会科学古典資料センター年報, 38: 1-15、2018-03-30 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/29236/1/koten0003800010.pdf

委細は省かざるを得ないが、当論文を概観して特に興味を惹いたのはフランス近代思想(自然法思想)と「習俗」という、常識的には全く相容れないと思われる概念がフランス自然法の底流にあることが分かったことである。それは、同じ様な抽象論理の賜物でありながらも、このような「習俗」(つまり多様な情念の坩堝)を視野に取り込んでいることがフランスの啓蒙思想の祖と見るべきピエール・ベールや、あるいはほぼ同時代以降のモラリストの情念を重視する視点と見事に重なる。

しかも、同時にそれは特にマンデヴィルの17世紀オランダ(レンブラントの時代)の『日常』におけるエルゴン(神学的観念とは全く異質な現前化している実在の意味)の発見(or現代のツヴェタントドロフによる同意義の発見!)と繋がっている。また、それは第3章ー(3)でも触れたとおり、ピエール・べールは「人間性の自然」という表現で自然の一部の関係性の個体における一回性(情念の相互関係)の現れが人間性の正体だとも説明しており、おそらく前者が「政教分離」の観念へ至るまでの長い道程の端緒であり、後者は同じく「基本権」のルーツになったと考えられるからだ。

因みに、「ライシテ/laicite」(フランスにおける、明確な政教分離の観念を表す言語表象)が初めてフランス共和国憲法の中に現れるのは、パリコミューン(1871)の後に制定された「第三共和国憲法」(制定1875)が、1884年明治17年大日本帝国憲法・公布、1889年から5年前)に改正された時(フランス大革命から約100年も後になって漸く!)である。

 無論、紛れもなくその創始者の位置に立つシャフツベリーとJ.ロックも、経験論と言う意味では矢張り「日常」における感情の要素を無視するどころか、そのスタートラインに感情を置いてはいる。が、特にシャフツベリーのモラル・センスは一気に抽象的な言語表象の世界へ飛翔してしまっており、そこで構築された論理は美学的な整合性を急ぐあまりか、所謂「綺麗事」と過剰な楽観主義へ(つまり性善説)へ流れてしまったと思われる。

しかも、「フランス語の習俗les mœursは,「善い方向もしくは悪い方向へ向かう人間の習慣である」という田中大二郎氏の指摘は、おそらくマンデヴィルも気づいていた『日常のエルゴン(死静態)=±を併せ持つプレデュナミス潜在性(経済的な意味での付加価値などリアル現勢態(エネルゲイア/energeia)の淵源)と見事に重なっている。

(4)ホッブスリヴァイアサン』は、政治権力の正体が「普遍(持続性)Vs情念」なる双頭のリバイアタン」であることの気付き

ところで、平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)』によると、ホッブス(T. Hobbes/1588 - 1679/英国の哲学者、社会契約説で近代的な政治哲学を基礎づけた)は、マキャベリの「運命に抗うべき変異性必須論/マキャベリズム」(君主論/君主に限定された役割)を抜け出し、そのマキャベリズムを近代自然法思想の中核(政治権力の正体に関わる解釈論視座)に密かに忍び込ませた、とされる。

 ・・・当画像は、https://wedge.ismedia.jp/articles/-/4836?page=3より転載。

その具体的なイメージ表象が上掲、ホッブスリヴァイアサンであるホッブスは、デカルトらと共に(というかデカルトの影響を受けて)機械論的世界観(結果から原因へと還元・構造的に考える、つまり自然発生的世界観への対概念)の先駆的哲学者の一人でもあり、スピノザ(Baruch De Spinoza/1632 - 1677/オランダの哲学者/デカルトライプニッツと並ぶ17世紀近世合理主義哲学者らと共に唯物論の先駆的思索者とされる)らと共に人工的国家論(キリスト教神学下での王権の定義から距離を置く考え方/このため現代でもホッブスは王党派・共和派的な相異なる立場から両義的に解釈される傾向がある)の提唱と社会契約説で近代的な政治哲学理論を基礎づけている。

「ギュスターヴ・ドレ製作の版画/レヴィアタン

f:id:toxandoria:20191129133632p:plain・・・当画像はウィキより。
17世紀の半ばにピューリタン革命(1642~1649)で国王チャールズ1世が処刑(王政⇒共和政への急激な転換が実現)されたとき、この動乱を逃れた亡命先のフランスで書かれたのが著書『リヴァイアサン』(1651)である。リヴァイアサンは、この著書の巻頭で国家の原理を象徴するものとして掲げられた銅版画である。その原型イメージは旧約聖書ヨブ記で現れる、そもそもは海の怪獣とされるレヴィヤタン(リバイアタン)である。

カール・シュミットが指摘したとおりこれは国家神話(善と悪の両義性)の表象である。このイメージを王権神授説と誤解する向きがあるが基本的な誤りである(そもそもレヴィヤタンは巨人、巨獣、人工機械(オートマタ)、可死の神という4つのイメージの融合であるので、死すべき寿命のある神が永遠の王権を授けるのには無理がある!w)。むしろ、その真意はマンデヴィルと同じく「善と悪が併存する自然・人間社会のリアル」の直視だと見るべきであり、そこには「対称性バイアス」の問題(参照↓★)すら潜む可能性があると思われる。

★対称性バイアスの必然性と可能性: 無意識の思考をどうモデル化するか/中野 昌宏, 篠原 修二、https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcss/15/3/15_3_428/_pdf

有り体に言えば、このバイアスは「空気に流され、忖度へ走る」という場面で主導することになるメジャーな空気(多数派Vs少数派の社会の中で囚人のジレンマなる権力側への抜け駆けを禁ずるという逆接)の問題であるが、これは今まで馴染みがなかった新機軸の概念を獲得したり、ものごとを創造的に考えたり、発見的に推論したりする場合にはむしろ不可欠なものと考えられる。

だから、これはマンデヴィルの逆説(悪徳でも上手く使いこなしさえすれば有益!)のキモだとも言えるだろう。が、マンデヴィルも腐心したとおり、これが殆ど理解できないのが例えば現下のトランプや安倍信三らの如き芯からマイファーストの私益や御仲間益で凝り固まった権力者の類である。

ところで、「巨人、巨獣」はヒトの内部に宿る強烈な情念の象徴であり、「人工機械」が普遍的な持続性(というよりも、普遍的な持続性への希望と見るべきか?)の象徴であることは容易に理解できるが(両者で双頭のリバイアタン(レヴィアタン)となる)、問題は「可死の神」である。絶対王政では、永遠の生命を持つ神の保証が「王権神授説」の支えとなっているので「可死の神」では都合が悪い。

田中純一『政治の美学―権力と表象―』によれば、「王権神授説」の物語は「ローマ教会の教皇権の連続性」の借用である(近代国家論の重要概念はすべて世俗化された神学概念である。カール・シュミット『政治神学』‐)。教皇権の連続性を仲介するのが、完全な空位状態を回避するために行われる象徴的「儀式」であり、これによって「権力の三つの身体」(前教皇‐象徴的儀式‐新教皇)の永遠の連続性が確保される(その儀式の象徴性が教皇権の永遠の連続生命を保証している)。

「王権神授説」でもこれと同様の象徴的儀式を介在させる、いわゆる「権力の三つの身体」のプロセスで王権の永遠の連続性(連続生命としての王権)が保証されてきた訳だが、ホッブスリバイアタン(レヴィアタン)が「可死の神」であるのは、初期啓蒙思想の「社会契約」に因ると考えられる。つまり、神学的な王権の連続性より、やはり社会契約論による王権の保証が優先された訳である。従って、この点については異論もあるようだが、市民の「生存する権利」、つまり自然権を重視したホッブスにも抵抗権の考え方は存在したと見るのが妥当である。また、当然ながら「可死の神」には科学革命の影響もあるだろう。

f:id:toxandoria:20191130061422p:plain

https://twitter.com/SamejimaH/status/1200401955945758720

それよりも、ここで懸念されるのは、生物社会が何等かの「永続性の原理(↓注記)に組み込まれていると想定され得るので、この「マンデヴィルの逆説」的な真理が理解できない多数派層が常に一般大衆の中で常在的に過半超を占有する可能性が高いと思われことだ。ところが、ここからは「人間社会」故の逆説となるのだが、そのような意味での世間一般と言うヒトの浮世の情弱で脆弱な空気の中では第三権力のジャーナリズムが余程シッカリしない限り(一般生物と異なり『宗教、知識文化、科学技術、破壊的な機械軍事力』などが伴うことに因って)、多数派ポピュリズムそのお仲間主義者らに対し常に弱い立場であり続け、それらに回収され易いのが普通ともいえることになる。このことから理解できるのは、おそらくファシズムによる国家統制のリスクは今でも常に存在するということである。

<注記>ダ―ウイン進化論の上位概念としての仮説「永続性の原理」について

・・・これは進化生物学者・長谷川英祐・北大大学院農学研究院・准教授の著書『働かないアリに意義がある』で注目された生物学上の仮説。蜜蜂や蟻などの社会では約3割弱の“働かない蜂や蟻”が常に存在しており、もし一定数の働き蜂や蟻が死滅すると、今度は彼ら少数派が働き始める。つまり、生物社会には此れに類する何らかのバッファーが組み込まれている可能性が高い。そのバッファーの狙いはリスク分散であり、ミクロな生存競争(ダーウイニズム)はマクロな「永続性の原理」(リスク分散)で補完されているのかもしれない。但し、人間社会の場合は一般生物と異なり「宗教、知識文化、科学技術、破壊的な機械軍事力」などが伴うため、必ずしも一般生物の場合と同じ「永続性の原理」として作動するか否かは分からない。しかも、恐ろしいのは、歴史を顧みれば、それが致命的な「滅亡の原理」へ転相する可能性がむしろ大きいことである。ともかくも、よく知られているものでは「カッコウの托卵」なども同原理でのリスク分散として理解できる。更に次元を上げて考えてみると、人間社会のポピュリズム問題(約7~8割ノンポリ層の存在)でも似たような原理が推測される。それは、どこの国でもほぼ同率でノンポリ層が常在的に分布することからも窺われる。また、仮にある社会が100%エリート集団であったとしても、矢張り、おそらくそこでも7割程度はノンポリ化する(健全なジャーナリズム等の外部情報インプットが正常に作動しない限り、矢張り何も自律的に考えられない人々の多数派層が形成される)と思われる。

 ・・・

また、ンデヴィルが『蜂の寓話』のなかで最も強調しているのが、この忖度の問題であるのは同書を一読すればよく分かるはずだ。無論、ズバリ忖度に当たる言葉こそ使っていないが、マンデヴィルは「空気を読み、権力者や支配層の立場の人に対する過剰な気配りと同調」のことを綺麗に言えば「社交術」、汚く言えば「おべっか、へつらい」だと書いている。しかも、その時に標準的な価値観として持ち出されるのがシャフツベリーのモラル・センスであることに大いに立腹し、危機感を抱いている 

 

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1198706232346828800

ところで、いまJPN「安倍サクラ政権」下で延々と繰り返される“忖度を巡る怪奇現象”、マイファースト権力者との口裏合わせが目的の「官僚による公文書等の廃棄処理」の多発問題は、実に情けないことだが<公正と正義のため場合によっては囚人のジレンマ(whistle-blowerの出現)を容認する秩序が日本社会に不在である、つまり来の『安心社会』から転じて、法と良識遵守の慣習を最も重視する“個々人が社会的知性を身に付けた新たな『信頼社会』”へ向かう努力が足りない>ことを示す一方、信頼社会にとって有用な正しい意味での名声の価値も未だに深く認識されていないことの現れである(要参照資料↓▲)。

▲RIETI Special Report/「安心社会」から「信頼社会」へ―山岸俊男氏(1948-2018)の死を悼んで/山口 一男・客員研究員、https://www.rieti.go.jp/jp/special/special_report/097.html

(4)ホッブスとマンデヴィルの共鳴的な警告、それは現代の新自由主義に繋がる経済原理の問題

新自由主義へ至るまでの流れ)

ここで一つ忘れてならないのは「12世紀頃~の欧州には自動機械人形(Automata)の伝統が存在すること」である。それは、やがて16~17世紀頃に科学革命の影響を受けるようになり、それは次第に現代で言うところのロボット的イメージを形づくるようになった。そこには遥か300年後の未来における「機械orAIデュナミス高度生産性」をめぐる「人間の壁」の出現による大「格差」発生の予感すらが窺われる。

ホッブスリヴァイアサンは「巨人、巨獣、人工機械(オートマタ)、可死の神」という4つの神話的な権力の正体(権力に潜む巨大な情念の危険性!)の象徴であった(@カール・シュミット著、長尾 竜一・訳『リヴァイアサン―近代国家の生成と挫折』‐福村出版‐)。オートマタ については、例えば16世紀には仕掛け噴水やオートマタを配置した人工庭園がヨーロッパで流行した。1615年にはフランスの技術師サロモン・ド・コーが『動力の原因』を発表したが、そこで紹介されている自動装置の設計図では、水力とともに歯車が動力として用いられていたことがわかっている。

更に、もう一つここで付け加えておきたいことがある。それは、このマンデヴィル『蜂の寓話』の逆接の風刺、「私益すなわち公益=悪徳こそが永続的な社会・経済発展のエネルギーである!」が文字どおりに解釈され(又は作為的に方便で悪用された節もあるが)、やがてそれは経済アカデミズムで箔をつけ独り歩きし始め、遂には現代の新自由主義の「経済イデオローグ・リヴィアタン(リバイアタン)」を誕生させたことである。

このように現代世界を主導する経済思想は新自由主義(Neo-Liberalism)であり、それが市場主義と結びついたのがグローバル市場原理主義だ。そのルーツから現在までの流れを概観すると以下のとおりとなる。

グローバル市場原理主義のルーツはシカゴ学派Manetalism)の祖であり、ケインズ論の祖ハイエクとそれを引き継ぐミルトン・フリードマンらであるが、その特徴は“物価と名目所得変動の最大の要因が貨幣供給量の変動だと主張する点にある。又、彼らは政府の財政介入を可とするケインズ主義や付加価値の公平分配を重視する福祉国家論は社会科学的な無知と不勉強に基づくとして厳しく批判する。

彼らによれば、福祉国家論は人間を堕落させることになり、その代案として彼らが提唱するのが“自由原理と市場主義の融合”だ。それは国民一人ひとりが自己責任の原則に基づき自由に市場へ参加すれば、市場活動を通じ自ずから最適な調整と公正な分配が達成できるという考え方である。簡単に言えばアダムスミスの古典派経済学、つまり経済・厚生・福祉活動における全ての調整を神の手が宿る市場へ任せる、あの自由放任主義が再び市場原理主義の理念の名で復活した訳である。

 1993年にIMF世界銀行・米国政府らの関係者がワシントンに集まり、この考え方を一定の合意に基づく戦略として取り纏めたのがワシントン・コンセンサスである。これは8つの基本合意”から成っており、その内容は「W.C.に拠点を置く銀行等金融機関の財産権の保護、政府の規制緩和、政府予算の削減、資本市場の自由化、為替市場の開放、関税の引下げ、基幹産業の民営化、外国資本による国内企業の吸収・合併の促進ということになる。

これには、アメリカが1991年のソ連崩壊後(ポスト冷戦構造)の世界を経済面から支配するための“新戦略”(既に色褪せたブレトン=ウッズ体制(第二次世界大戦後に計画されたアメリカ主導の世界経済復興戦略)に代わるスキーム)という意味合いもあった。現在、このコンセンサスに基づく新戦略のシナリオに沿って「グローバル市場原理主義」が世界を覆いつつある訳だが、日本の安倍政権のアベノミクスなる経済・財政政策も、このコンセンサスの枠内で進められてきた。

新自由主義へ至る流れの深部構造/全て承知の上で?マンデヴィルの逆接「悪の論理/私益すなわち公益」を利用してきた流れ)

更に、このストリームの上部構造と見るべきものがあり、それが「マンデヴィル(ホッブス)~古典派経済学(アダムスミスら)~新古典派経済学新自由主義」の流れということである。そして、経済アカデミズムはこの奔流の流れの上でマンデヴィルの<逆接「悪の論理」>を更に強化しつつ全て承知の上での『悪用』、ないしは敢えて『誤用』してきた節があるのだ。

これは「政治権力」と「経済価値に関わる表象操作」の間の怪しい関係であるのだが、より具体的に言えば<真のエルゴン&生産デュナミス潜在性に盲目のまま「マンデヴィルについての“誤解”=私益すなわち公益」を助長し「格差」拡大のタネを仕込んできた>ということである。

分野は異なるが、プロパガンダによる「定説」改竄の事例としてエピキュロス派哲学(快楽主義)の問題を挙げておく。ヘレニズム期ギリシアの哲学者エピキュロスに始まる学派は快楽主義として広く認識されているが、そもそもエピキュロスはa「快楽」よりもb「心の平安と苦痛がない状態」を目的としていた。ところが敵対するストア派からプロパガンダ・スキャンダルを大量に浴びせかけられaとbの認知が倒置し、遂には「エピキュロス派=快楽主義」が定着してしまったとされる。

さて、このストリームの上部構造の流れで特に注視すべき「認知バイアス」操作は二回あると思われ、それは新古典派経済学ワルラス一般均衡論=ラグランジュ解析力学(数学的には熱力学と同じ)の模倣)とグローバル市場原理主義新自由主義金融工学)である。

後者はリーマン・ショックに繋がった記憶が未だ割に新しいが、前者については更に静力学(化学系の均衡)散逸(同構造系の均衡/ブリゴジン)の問題が絡み、関連する収拾の先は見えないようだ。しかし、仮にこれら数学・物理学の援用に些かの問題があったとしても、そもそも此処まで巨人化してしまった経済理論のテンソル部(屋台骨)を根っこから弄繰り回し矯正を図るのはあまり現実的でないと思われる。

少し付言すると、こういうことではなかろうか?ヒトを含めた凡ゆる生命活動の根底が「一回性のリアル関係を支えるのがセカンドオーダー・サイバネティクス的なクオラムセンシング、触覚性の知覚機能」(委細は第4章で後述)の問題に近いと見なすことができるだろう。

とすればヒトの一回性のリアル(『日常』性がベース)に直結する経済(厳密に言えば政治経済)を語る、ミクロ(microtubule/最小限の生命活動?)~マクロ(フリードマンなどの宇宙モデルなど)を繋ぐ論理は、上の上部構造ストリームの議論に限れば散逸(同構造系のブリゴジン均衡)に近いと思われるものの、更に「量子論的・数学論的な抽象論理 ⇄ 一回性の生命活動(≒『情念』なる現勢体“エネルゲイア”)」を繋ぐ現場(リアル)で有効なのは、ATP(アデノシン酸三燐酸)やマイクロバイオーム・ワールド等を支える「生命経済の論理」の方が適切ではないか?と思われるからである(関連参照/↓▼)。

 

f:id:toxandoria:20191129211817p:plain

 

コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然) https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

 ・・・

ホッブスが、権力に潜む巨大な情念の危険性の象徴である“巨人、巨獣、人工機械(オートマタ)、可死の神という4つのイメージの融合”を自然法思想の中に密かに仕込んだ可能性がある>という「平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)」の指摘は、案外、この辺りの問題と深く関わっており、それは自然法思想を支える「国民主権」(自然権)が導く当然の帰結であり、それは生命のリアル!)が王権と全く対等であるという論理を成り立たせる重要な根拠になるのではないか。「香港デモ」を巡る過酷な現況の出現は、おそらくこの「基本権の根底」部分の問題と関係があると思われるが、片や、今や犯罪者同然(というか、おぞましい犯罪者そのもの!?)と化した安倍政権の「サクラ型暴走政治」に対する一般日本国民の無関心ぶりには、驚愕するバカリである。

 ▼コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/ バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然) https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

従って、矢張りより重要なのは当記事で取り上げた「おそらく内外エトノスの自然計算or量子コヒーレンスとも広範に、かつ啓蒙思想のベースと見るべき『情念』(ピエール・ベール、シャフツベリー関連で取り上げた当記事の重要テーマの一つ!)とも深く共鳴するため無限の可能性がある、プレ・顕在化(現勢体/エネルゲイア/energeia)のエルゴン(死静態/ergon)」について、つまり「死静態(エルゴン)→デュナミス(潜勢態・潜在性/du(y)namis)へ遷移する部分」および「機械・AI高度生産性(抽象性)のエネルゲイア化」」にスポットを当てて、旧来の伝統経済学を補強するという発想の転換こそが、「新自由主義」の宿命である格差対策のためにも必要だと考えられる(機械・AI高度生産性については下記↓★参照乞う)。

4  透明甲殻リバイアタン・ファッショ安倍からのExodus!そのカギとなる「リアル触覚遊牧民、小さな人間(@アルバ・アールト)」

・・・準汎用AI経済の時代に必須となるのは「グローバル透明甲殻ファッショ」(“閉塞的”鏡像ナルシス)の天敵たる「リアル触覚遊牧民、小さな人間」の視点(@アルヴァ・アールト)・・・

(1)「安倍サクラ内閣」の正体は透明甲殻リバイアタン・ファッショ

f:id:toxandoria:20191130043450p:plain

f:id:toxandoria:20191130050815p:plain

https://www.nikkei.com/article/DGXKZO51581510Q9A031C1KE8000/

f:id:toxandoria:20191130073555p:plain

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1200527562377576449

安倍サクラ内閣の正体は、先ず多数派の人々に照準を定め彼らを自らの内部へ連れ込み、それを効率よく消化・吸収(養分化)し次いでマイファースト専用の単体クラスター分泌という不気味な仕事に取組む、いわば自らのクローンを好き放題に増殖しようとするナルシス鏡像型のファシスト集団であり、しかもその不気味な単体クラスター分泌は恰も悪性腫瘍の浸潤の如くエンドレスに日本社会のなかで拡がってゆく。そのため、何よりも邪魔となるのが日本国憲法の授権規範性(=国民主権)の性格である。

しかも、それは面妖な自己愛の欲望に従いつつ底なしの合わせ鏡像に酔い痴れるナルシスの泥沼へ沈潜する自己イメージの完結のためである。欧州の極右トレンドが大いに懸念されているが、日本では既に安倍サクラ内閣こと「カルト極右=透明甲殻リバイアタン・ファッショ」が主要メディアを調教しており、その狡猾なプロパガンダで長期安定政権の記録を更新中である。まさに、これは<世界の極右ファッショ・トレンドの最先端をひた走る超弩級の大国難>に襲われた緊急事態ニッポンの異常な姿になっている。

 ・・・

「プロローグ」でも触れたとおり、「お友達内閣」とも揶揄される安倍政権の実像は日本会議こと「戦前型アナクロ・ゾンビ(英霊界派遣エイリアン)一派」のれっきとしたメンバー(安倍晋三氏はその特別顧問)であることで歴然としている。そして、日本会議の当面の最大の狙いは「“改憲”強行で日本国憲法から授権規範の性格を取り除き、明治憲法の時代の如く上が与える国民主権の形を強行<改憲>下で確実に取り戻す」ことである。 

だからこそ、その安倍政権が如何に“グロテスクな“英霊”の御仲間ご用達の巣穴(or“英霊”量産用の墓穴)”堀りの悪趣味を持っているかは、今からでも決して遅くはないので一人でも多くの日本国民が知るべきである(主要メディアは忖度して言葉を濁さずに、分かり易くハッキリとこの恐るべき緊急事態を記事で書くべきである!)。比喩的に言えば、このようにおぞましい日本会議の性格<多様性絶対否定の無限後退「鏡像ナルシス権力」集団、つまり繰り返しになるが「透明甲殻リバイアタン・ファッショ」とでも呼ぶべき“倒錯”政治意識に嵌った異常カルト集団である(更なる日本会議の委細は下記◆を参照乞う)。

◆「平和主義」放棄と「国家神道教育勅語アナクロ国策」復活のため強引な「改憲」を謀る安倍晋三萩生田光一日本会議らは「教育勅語」を起草した井上 毅らをめぐる、本物の「日本国民の未来」を考えた明治期・俊秀らの粒々辛苦の歴史を本気で学び直せ!https://www.evernote.com/shard/s440/sh/2f50b2a8-a879-46d5-9d58-f25f25ace999/6064574b9e2a5d59bb2b15b3ddae69d4

日本会議安倍晋三萩生田光一ら)の恐るべき正体!再び日本国民メジャー?の脳内(精神環境)に深く取り憑いた戦前型カルト「国家守護神制(亡霊(英霊)鎮護国家?)の残照https://www.evernote.com/shard/s440/sh/379c4eda-3097-4638-b26a-6c735e3fb1e9/03e623ec0959b29b3a08bc25e9860bf6

正統保守と偽装極右(安倍首相らが信奉する国家神道&尊皇テロ愛国妄想権力/日本会議、指南)の混同が多数派層の内心のネジレを増幅し、不要な『改憲』へ日本を連れ込みつつある!https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20170518/p1

・・・

(2)「利己心と自負心」(マンデヴィルでは同じ悪徳)の違いとは?

 ・・・その見分けこそが『透明甲殻リバイアタン』、ネオ・ファシズムへの決定的アンチテーゼとなる・・・

f:id:toxandoria:20191130052044p:plainゲーデルの画像は、https://analyticsindiamag.com/does-godels-incompleteness-theorem-question-the-possibility-of-strong-ai/より。

◆【「触覚遊牧民、小さな人間」が紡ぎ出す無限の関係性・多様性ゲーデル不完全性定理によれば我々が生きるリアル世界で基準とすべき健全な論理(論理式、人間・社会・自然の相互関係)には、それを解釈する世界に応じ常に複数の多様な意味がある!故に、一回性の証言or関係性を無視・隠蔽する政治的な行為等、例えば安倍政権が得意技とする議事録・閣議決定らの後出し的な“操作”(改竄・隠蔽・削除・消去、等)はナンセンス・詐欺行為ないしはカルト抽象性とリアル実在を同一視するである!

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1193294570102018049

◆@itaihito2さん/プラズマの研究者のHPの記述にこういうものがあった。・・・「周囲の状況を察し不安定な領域を乗り越えてあるべき場所に意志を持ってたどりつく」、そこで周囲の状況との相関関係の複雑さに時間が追い付けないから量子論的なカオス(出現する時間の共存関係?)が生まれる。量子論というのはそういう事だと思っている。

 ⇒ to @tadanoossan2/●遺伝の信頼性・・・これは、DNAの分子レベルにおける量子力学に依存している。https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/

 ⇒ to@itaihito2さん/面白い!プラハに住むユダヤ人としてドイツ語で小説を書く経験をしたカフカが、意図せずして?「言語の非領域化」(恰も量子“確率分布”論的な意味での、複数の“一回性としての時間の共存”の如き触覚性の感覚)を体験したとのエピソードを想起!ドウルーズetガタリ(@田中純一『政治の美学―権力と表象―』)@tadanoossan2 https://twitter.com/itaihito2/status/1193434682462859265

・・・

 国民主権の形」の根本を考えるに当たりヒントとなりそうなのが、かつて水田洋氏(名大名誉教授/世界的に著名なアダム・スミス研究者)が述べた「それは上(神や君主など)から与えられたものではなく、(蜜蜂の群生コロニーならぬ)ヒトの社会に生きる人間自身の意識が創り出したものだ(マクダウエル『リアリズム倫理』をも連想させる!)」という言葉である(@水田洋『近代人の形成』(東大出版会))。

この水田洋氏の含蓄ある深い意味の言葉はマンデヴィルにおける「利己心(自愛なる悪徳)と自負心(自愛のジャンル)」の差異(マンデヴィルではこれら両者の差異があまり判然としない?)を考えるヒントも与えているようだ。因みに、マクダウエルの『リアリズム倫理』を短く言えば、それは「人間の意識の存在を自然界や社会的事象のリアルと全く対等に位置付けて理解する両者を同一視するカルトとは全く異なる健全な認知的理解である!」ということだ(委細、下記▼参照)。

バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然)/@マイファ―スト&ポピュリズムで“流動化”する世界、特に日本で目立つ<主要TV・新聞・国民>の「共依存(相互忖度“もたれ&もつれ”合い)」に因る「想像力」消滅 https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

従って、この「それは上(神や君主など)から与えられたものではなく、(蜜蜂の群生コロニーならぬ)ヒトの社会に生きる人間自身の意識が創り出したものだ」という田氏の」言説における“それ”「多様性に満ちた自然世界と人間社会における一回性のリアルな関係」を意味するコノテーション(connotation/含意・内包=個人的・情感的・状況的な意味のことで、外示(denotation/辞書に登録されている語の最大公約数的な意味)の対語)であることに気付きさえすれば、<ただのナルシス的な「利己心」ならばそれは悪徳へ傾いたものであり、一方で「自負心」というものは、むしろ隔りなく多くの他者との善意に因る関係性に近づく>という意味で全く異なった方向性(ベクトル)であることが分かるはずだ。

(3)触覚性「知覚機能」の核心:クオラムセンシングは一回性のリアル関係を支えるセカンドオーダー・サイバネティクスのジャンル

‐セカンドオーダー・サイバネティクス

R.デサール&S.L.パーキンズ著『マイクロバイオームの世界』(紀伊國屋書店/2015原著)によると、我々の体内に棲む膨大な数の細菌類がマイクロバイオーム(Microbiome)という宇宙的な規模の纏まり(ウイルスまで入れると、それは超100兆個の新世界(宇宙規模!)の発見を意味する!)であり、彼らの全て(そのDNAも含む)が刻々とヒトの細胞やDNA、およびエトノス環境と直接的な遣り取り(水平移動・交換・交流・共感・妥協)をしつつ我われの生理機能を調整し個体のアイデンティティ持続させている(セカンドオーダー・サイバネティクス(orノントリビアルサイバネティクス)で言うobserver情報を取り込みつつ?)ことが、ここ数年来の研究で急速に解明されつつある(委細は↓◆参照)。

◆20170320toxandoriaの日記/マイクロバイオームが拓く新世界への希望/DNA観察から見える「“民族主義レイシズム=非合理”http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170320 

 ・・・フェルスターの画像はウイキより

Heinz von Foerster(1911–2002)Austrian American scientist combining physics and philosophy, and widely attributed as the originator of Second-order cybernetics. https://en.wikipedia.org/wiki/Heinz_von_Foerster 

ここで注目すべき重要なファクターがH.v.フェルスター(↑画像)のセカンドオーダー・サイバネティクスだ。つまり、それは従来のファーストオーダー・サイバネティクスを「普通のサイバネティクス」(トリビアルサイバネティクス/下図1)とすれば、セカンドオーダー・サイバネティクス(普通ではない2nd.オーダー・サイバネティクス/下図2)型の自己言及システムがあり得ること、それがヒトを含む生命体のそもそもの起動因となっている可能性が高いという発見である。

f:id:toxandoria:20191130075051p:plain

3Trivial machines、4Nontrivial machines http://web.asc.upenn.edu/usr/krippendorff/secorder.html

・・・Trivial machines :As shown in Figure 3, trivial machines are driven by their inputs. Describing something as a trivial machine is to focus on the predictability of its behavior, o, from the conditions that impinge upon it, its input i. This is accomplished by formulating a relation between the two observables, ideally in the form of a mathematical function F : o = F(i). Functions do not offer choices.

周知のとおり、サイバネティク(ファーストオーダー・サイバネティク)は20世紀中ころにノバ―ト・ウイナー(Norbert Wiener/1894-1964/米国の数学者)らにより情報と通信に関する制御理論(自己言及的フィードバック・システム)として定式化されたものである。

このファースト.オーダー・サイバネティクスの特徴を端的に言えば「結果をインプット(原因)側に返すことで原因側を自己言及的に調節し続けること」である。例えば、電気回路では出力による入力の自動調整機能、生体では代謝・内分泌の自己調節機能などを挙げることができる。

因みに、このファーストオーダー・サイバネティクスをモデルとする西川アサキ(AI研究・情報哲学者)らの「意識創生に模したコンピュータ・シミュレーション」では(セカンドオーダーでないことに注目!)、そこで創生された“コンピュータ上の意識もどき”(最小単位モジュール)が「対外部的な超閉鎖化と読み替え得るような動き」が観察された、という報告があることを注視すべき、と思われる(参照⇒『西川アサキの基礎情報論』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104)。

おそらく、これはプラットフォームの大小の問題ではなく、あくまでも“情報フィードバックのあり方”、換言すれば、基本となる“性質または性格”の問題なので、例えば、安倍政権の基本プラットフォーム(基本となる政治姿勢)の特徴である透明甲殻リバイアタン・ファッショ』性の問題は、たとえいくら壮大な政策構想を持つとしても、そのスケールとは全然無関係に、その無気味な透明甲殻リバイアタンは安倍政権の仕事のトータルの凡ゆる局面で偏在することになる。まさに「暗い雰囲気の安倍政権の悪徳は細部と全体に遍く宿る」という訳だ。

一方、H.v.フェルスターのセカンドオーダー・サイバネティクの活動モデルでも、その起動因は先ずシステム内“観察者”に仮設することで得られることになるのだが、そこでは<外部環境(それはカント的な普遍の表象ないしは最広義のエトノス環境とも言える)というフリーハンドの外部から入ってくる多様なエンドレスの影響があるからこそ、いわば「平等な個性(主権)」を持つ個々の外部環境との水平な一回性の関係の持続を確保できることで「起動因」自身も常に自由で開放的な自己言及のエルゴン(ergon/±、又は善・悪両面のファクターを併せ持つ死静態)が確保できることにな

なお、最初に取り上げた個々のマイクロバイオームが、生体内において「平等な個性(主権に読み替え得る?)」を持つ個々の外部環境のそれとの間で、水平な一回性の関係を持続的に確保することに匹敵するような生理活動(あるいは、より正確には情報活動と言うべきか?)の典型事例としてクオラムセンシング(定足数感知)がある。

‐ クオラムセンシング(定足数感知/quorum sensing)‐

クオラムセンシング(定足数感知/quorum sensing)とは、例えばある一部の細菌らが「未知で正体が知れぬ相手に対して先ず仮の名づけ(ネーミング)を行い(AI‐DL教師なし学習クラスタリングに似ている?)、次に、その仮の見立てに応じて自らのシグナル伝達要素(分子)、または自由誘導因子(オートインデューサー/autoinducer/同種菌が生産するシグナル物質)などの分泌(フェロモン様の物質であるクオルモンらの産生)を調整するシステム(その結果、バイオフィルムが形成される)のことである(画像はウイキより)。

この定足数感知の概念をザックリ概念的に言えば、それは「一定のマイクロバイオーム環境内において、ある個体(バクテリア・細菌・ウイルスなど)が、初遭遇であるため未知で得体が知れぬ相手側の個体が自らに対し、その恰も多変量解析の如く非常に複雑な環境下において、果たしてどれ程の有害性または無害性を持つかを物理・化学的かつ定量的に測り知るための殆ど触覚に喩え得る程デリケートなやり方で化学信号を相互交換する生理的“調整”作用」ということになる。

f:id:toxandoria:20191130101021p:plain

因みに、近年の研究で「この生理的“調整”作用で形成されるヌメリのあるバイオフィルムの中には驚くべきほど多数の菌種が生息しており、その菌種が更に非常に複雑きわまりない多様な社会を創っており、例えば、そのバイオフィルム内部の菌密度が外部の数千倍におよぶこともある!」ことが分かってきている(▼1/画像は▼2より)

▼1 目に見えないヒト常在菌叢のネットワークをのぞく:太田 敏子/宇宙航空研究開発機構 宇宙飛行士運用技術部 宇宙医学生物学研究室、http://www.sasappa.co.jp/online/abstract/jsasem/1/049/html/1110490301.html

▼2Biofilm developmental stages 

1ttps://www.researchgate.net/figure/Biofilm-developmental-stages-1-Quorum-sensing-EPS-and-microcolony-formation-2_fig1_309201414 

<補足>AI‐DL教師なし学習について(部分転載@↓★)・・・教師あり学習で行っていたのは「分類」問題を解いていたのだが、教師なし学習が行うのは「クラスタリング」(グループ化)である。両者は似ているように思えるが、「分類」はあくまでも個体のラベリングであり、「クラスタリング」は各「個体」の属性を目星とし同じ仲間と思しき「複数の個体でグループを作る」(クラスター化する)ことだ。別の角度から言えば、教師なし学習で行うのは、多変量のデータが大量にあって、どういうクラスタ分割ができるのか分からないので、とりあえず、それをやってみるという様な場合に有効な手法である。重要なのは、クラスタリングで得られた複数のクラスターの夫々がどのような特徴を持つデータ集団(仲間)であるかを、その教師なし学習の結果しだいで、今度は人が類推的に理解(今度は人が、その複数クラスターを見分けて評価)する必要があることだ。・・・以下、省略・・・★ AIの正体を知れば哲学が分かる!上っ面のAI崇拝は豚に真珠/AI批判「知」の “活用”で「ヒトがやるべき仕事」の発見と「壁《AI Vs ヒト》」の切り崩しができるhttps://toxandoria.hatenablog.com/entry/2019/09/02/125003

以上の概観から理解できるのは「生命圏トータルの一部としての我われヒトの体内エトノス空間と外界である自然エトノス環境との仕切りについても、これまで考えられてきたほど明確で強靭な壁が築かれている訳ではないらしい。そして自己アイデンティティーの保全は、問答無用で来訪者を拒絶する強靭・強固な壁の厚さよりも、先ず個々のファクターの個性(主権)が平等に保全されると同時にコミュニケーションの一回性の関係をしなやかに編み上げ続ける強かさで実現されているらしいということだ。

(4)アルヴァ・アールトの核心は、内外のエトノス環境を意識する人間的な「大きな機能主義」

・・・当画像は『国際巡回展「アルヴァ・アアルト展-もうひつの自然-」(2019.2.16-4.14 @東京ステーションギャラリー)』パンフレットより

A.Aalto 1935 Viipuri Library(ヴィ―プリの市立図書館/ロシア)
A.Aalto 1935 Viipuri Library 

・・・第2次大戦後ヴィープリ市はソ連領となり、情報がほとんど入らぬ状況が続いて居ました。ソ連崩壊後は日本からの見学者も増えたとは言え、「建物の痛みが激しく悲惨な状況は見るに忍びない」との感想を漏らされる方が数多く居られました。ヴィープリの図書館はパイミオのサナトリウム1928〜33とほぼ同時期にアアルトがインターナショナルスタイルを取り入れて二つのコンペを勝ち取り、国際的な評価を受けた記念碑的な建物と言うことが出来ます。と同時に、その後のアアルトの作品にしばしば用いられるデザインモチーフをあちこちに見ることが出来る大変興味深い作品と言えます。@北欧建築ゼミ アアルト:多摩美術大学 環境デザイン学科 (旧)平山研究室のページ https://hokuouzemi.exblog.jp/568611/

・・・

 フィンランド出身で20世紀を代表する世界的な建築家・都市計画家・デザイナー、アルヴァ・アールト(1898‐1976)の独特の個性(人間主義の建築)を表す言葉は「小さな人間」である。つまりアールトの建築とデザインの特徴はモダニズムに対する人間的なアプローチということであり、そのことからアールトは「フィンラン・モダニズムの父」と呼ばれている。そして、そのデザインは、自然との深いつながりを大切にする「地さな国」、フィンランド国民性に根付きつつ今も世界中の人々を魅了している(アールトの画像はウイキより)。

学芸出版社編集部が運営する建築・都市・まちづくりのウェブマガジン「まち座」のHP(↓★)を参照しつつ、「アルヴァ・アールト建築」の特徴上のポイントを、より具体的に抽出しておくと以下の通りとなる(同社出版、小泉隆 著『アルヴァ・アールトの建築/エレメント&ディテール』“まえがき”の案内より)。★http://book.gakugei-pub.co.jp/mokuroku/book/2277/ato.htm

人間のための「大きな機能主義」 ─ アールトが語る建築の理想 ─

 ・・・前、省略・・・具体的な作品紹介に先立ち、ここではエレメントやディテールが生みだされた背景にあるアールトの設計思想、作品の特徴について、アールト自身の言葉に即して記していきたい。

大きな機能主義

 「建築は科学ではない。それは何千もの、はっきりした人間的機能を結合する総合的な大プロセスであり、依然として建築である。その目的は物質の世界を人間の生活と調和させることである。建築を人間的にするということは、それが良い建築であることを意味し、そして単なる技術的なものより、はるかに大きな機能主義を意味する。

 アールトの作風は、初期の古典主義様式から機能主義様式を経て、独自のスタイルが確立された後も発展、変化していくが、「建築を人間的にする」「物質の世界を人間の生活と調和させる」という大きな目的は一貫して変わっていないそれこそが、時期やスタイルを超えて、アールトが生涯追求した最も重要な事柄であったといえるだろう。

 ここで「大きな機能主義」という言葉を用いている点にも注目したい。近代建築の台頭を後押しした「機能主義」は、技術や経済の合理性を偏重し、それが主として装飾が排除された幾何学的な形態表現と結びつくことで、建築の新たな一様式として世界的に広く波及していった。しかしながら、建築における本来の「機能主義」は、「建築の形態は実際の機能や目的によって規定される」というものであり、ここでいわれる機能には、技術面や経済面に限らず、人間の心理や生理に関わる機能までもが含まれる「技術の機能主義は本源的な建築をもたらさない」とも語るアールト、当時の「機能主義」が建築の発展に大きく貢献したことを認めた上で、その機能を人間の生理的・心理的な側面にまで拡張して捉え、「建築を人間的にする」「物質の世界を人間の生活と調和させる」=「大きな機能主義」というテーマを掲げた・・・以下、省略・・・

遊びの必要性

 アールトはまた、「建築を人間的にする」ためには、技術や経済の合理性だけでなく、「遊び」が必要だと語る。

 「われわれは、実験的な仕事を遊びの気分に、または遊びの気分を実験的な仕事に結び付けるべきである。建築の構造物、それから論理的に導かれた形態や経験的知識が、まじめに遊びの芸術とよぶことのできるものによって色付けられて、初めて、私達は正しい方向に進むことになるだろう。技術や経済性は、常に、生活を豊かにする魅力と結び付いていなければならない。」・・・以下、省略・・・

人間のための「大きな機能主義」 ─ アールトが語る建築の理想 ─

 アールトの作品は、人間を中心に考えることを起点として、内側から外側に向けてデザインされる傾向が強い。内部では、そこに居る人間の活動や求められる機能に応じて空間が形づくられ、窓の配置や形状が決められている。・・・以下、省略・・・

<注記>アルバ・アールトの人間を中心に考えることを起点として、内側から外側に向けてデザインされる傾向が強いアルバ・アールトの“大きな機能主義”」は、第1章で取りあげた イタリア・モダニズムの建築家、ジュゼッペ・テラー二の「倒錯の合理主義=非人間的な小さな機能主義」と正反対である。つまり、テラー二の小さな機能主義”はムッソリーニのファッショに呑み込まれる形で見事に回収され、それはイタリア・ファシズムの表象を代表する建築である「カーサ・デル・ファッショ」を創造したが、実は、その正体が「透明甲殻リバイアタン」なる妖しげなナルシス“自閉”怪獣であり、その特徴が「無限後退的に際限なく無辜の国民の生存権を脅かすものであったこと」は、既に述べたとおりである。

自然環境との共生

 「われわれは建築の理想的な目標を次のように定義できる。つまり、建物の役割は、人間(住民)に自然のよい影響をすべて与える装置として働くことあり、またそれは、人間(住民)を自然や建物がつくり出す環境に現われるすべての悪い影響から保護することである。そして今、私はこれ以上によい定義を見つけることができないのだが、建物もそれが緊密に所属している自然と同様に豊かなニュアンスをもっていなければ、その役割を果たすことができないということも、われわれは認めるべきである。」

 アールトの建築作品のうち約9割が母国フィンランドに建つ。それらの作品からは、高緯度ゆえの特異な気候風土、厳しい自然環境に抗うことなく、人間の生活を守りながらうまく共生していこうとするアールトの思想が垣間見える。・・・以下、省略・・・

時と場所を超えて

 建築家の仕事は、調和を生み出し、未来から過去までの糸をひとつにつなぎ合わせることに向けられている。その根本に存在するのは、無数の感情の糸を持つ人間と、人間を含めた自然である。」

 フィンランドという北の地で、土地の気候風土や伝統に根ざした作品を生みだしたアールトローカルな建築家」「ヴァナキュラー(地域や集団の暮らしに根差す)な建築家」と言われることもあるが、それはアールトの限られた一面を捉えたにすぎない。「ナショナルとインターナショナルの概念の結合が現代世界に必要な調和ある結果を生み出し、それらの概念は、互いに分離されることはできない」と語り「近代的か伝統的な表現か」という問いにも意味がない とするアールトの作品には、古典的なモチーフや地域の伝統的なモチーフが見られ、時にイタリアや日本などの他国のスタイルが持ち込まれることもあるが、それらは近代的なデザインと融合しながら、アールト独自の表現に昇華されている

 このようにして様々なエレメントが結びつけられたアールトの建築では、単なるスタイルではない、時と場所を超越した一つの「調和」が実現されており、ここにアールトが生涯追い求めた「大きな機能主義」が結実した形を見ることができるだろう。

(5)アルヴァ・アールトの触覚性の建築から学ぶべきこと

『政治の美学‐権力と表象‐』(東大出版会)の著者である田中純によれば、「アールトの人間主義の背景にあるのは、機械文明のなかで脅威に晒されている、か弱く、保護されるべき存在としての人間という認識であり、そのような特質が『小さな人間』というアールトの言葉には込められている」ということになる。つまり、アールトにとって、「人間のスケール」は決して建築のための物理的モジュールなどではなく、あくまでも世界のなかで人間が占める矮小な、それ故にこそ建築というシェルターで守られるべき地位(自然権、つまり生き抜くべきヒトの権利/補、toxandoria)であるという認識を示すもである。

従って、弱肉強食の新自由主義ネオリベラリズム)と相性が良いグローバルスタンダードとして人間の規格化(モジュール化)を建築・都市計画あるいは社会設計のための尺度とするのは許されるべきでないことになる。その意味で「普遍的人間性」なる言葉を、たとえそれが一面(言葉上)では近代啓蒙思想の「普遍」の観念(J.J.ルソー)と相性が良さそうだと見て、安易に新自由主義の経済観念や社会設計に接合するのも誤りであることになる。

つまり、アールトの思想からすれば、宿命的に自然エトノス環境のなかで生きる矮小な人間は、必然的にローカルな個性と結びつかざるを得ないのであるから、科学・機械文明の進化に伴い益々暴力(一方で、グローバル経済的な意味で強権)化する傾向を見せつつある「普遍」への圧力からは毅然として守られるべきなのである。

因みに、このように人間的なアルヴァ・アールトの目線から連想させられるのがマーティン・オルブロウの社会の茎(socio-scapes)である。これは、新自由主義ネオリベラリズム)(および、それがファッショ的な政治権力と癒着する傾向にあること/渦中の世界的極右ポピュリズム・トレンドの根源にある問題!)への対抗軸として、ローカル生命モデルから構想された「ヒトを幸せにする“社会的共通資本”たる新マクロ金融の創造!」ということである(委細、↓▲参照)。

▲チェリーピンク・アベGDPの日本はAIロボ『人間の壁』経済(第4次産業・AI革命)に備え“社会の茎”、「新マクロ経済/Ex. BI型“社会的共通資本”」金融への展相が必須!

https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

<補足>マーティン・オルブロウ(Martin Albrow/英国の社会学者(ドイツ出身))について・・・オルブロウは、トランスナショナルな分業を巡って組織される、国家など一定の地理的な領域を持たないコミュニティ>のことを「社会の茎」(socio-scapes)と名付けているが、ウルリッヒ・ベック(1944 - 2015/ドイツの社会学者)は著書『世界リスク社会』(叢書ウニベルシタス)の中で、これをグローバリズム時代における新しい「帝国」(国際金融資本など)へ対峙し得る、“グローバル市民のための全く新しい共有基盤”(いわばグローバルな社会的共通資本)になり得るもの>として注目している。

・・・

ところで、「プロローグ」でも触れたが格差問題の深刻化というグローバル市場原理主義の限界に悩まされる現代世界は、今や東西の別なく「極右ファッショへの回帰」を求める過激なポピュリズム・トレンドに煽られ

つつ多数派層が構成されるという共通の難題を抱え込みつつある

しかも、これは、所詮バカの量産現象だと揶揄し静観することが許されぬほど危機的状況となっている。しかも、その上手を行かんとするバカリの“我が偉大なる?安倍サマがやることならば、渦中の「サクラ祭り(見物)」式の国家犯罪であれ、凡ゆる公文書の廃棄であれ何であれ”、安倍サクラ内閣の蛮行に対し何故かあまりにも寛容すぎる日本は、今や異常を遥かに凌駕する「超常オカルト国家」同然となりつつある!w

しかし、目先主義を煽る甘美な大衆迎合プロパガンダに対し極めて脆弱なポピュリズム派の目には、いずれもが(1)AI‐SNSや(2)主要メディアの巧みな政治的利用(後者(2)は特に忖度の空気に溢れる日本で著しい!)、または美学的・心理学的な表象操作を伴う悪質な洗脳工作(例えばステマステルス・マーケティング)戦略の応用etc)の利用などで激しく鎬を削る時代であるだけに、このA-アールト的「プラットフォーム視線の方向」とB極右ファッショ的「プラットフォーム視線の方向」の違い(政治的に仕込まれるベクトルの向き)が非常に見えにくくなってきている。

その「政治的意志のベクトルの向き」とは、建築用語で言えば「建築アーキテクチャ(基本構想)が志向する方向性」のことであり、Aアールト的「プラットフォーム視線の方向」が「人間のための大きな機能主義を志向する、ローカルで小さな人間の目線」だとすれば、B極右ファッショ的「プラットフォーム視線の方向」は「無気味な内心の霊界を無限に志向する異常ベクトルの強制、いわば属人的で併せ鏡(鏡像)的な異界ナルシスト・ループの目線」ということになる。

・・・

Aジュゼッペ・テラー二のカーサ・デル・ファッショ

Bヴィ―プリの市立図書館f:id:toxandoria:20191130102408p:plain

Cアベ「桜を見る会」(↓)の深奥に潜む「異界ナルシスト・ループのイメージ(↑)」

f:id:toxandoria:20191130152045p:plain

2019.11.19 Business Journal /「桜を見る会」に反社勢力が参加か…半グレや詐欺グループ関係者の目撃談 https://biz-journal.jp/2019/11/post_128749.html

 ・・・

そして、Aの事例が「第1章で取り上げた『ジュゼッペ・テラー二のカーサ・デル・ファッショ』であり、Bの事例がここで取り上げた『アルヴァ・アールトの最も特徴と見るべき作品で、アールト建築の核心でもある大きな機能主義の建築の代表事例、ヴィ―プリの市立図書館』である

問題は、AとBが外面的に殆ど見分けがつかないことだ。そして、両者ともにその仕掛けは内部の動線計画と諸施設の配置方法(ゾーニング)の工夫などにある。つまり、既述の繰り返しとなるが「Aが悪質なのは透明なガラスの採用(つまり、見栄えだけで騙すための如何にも分かり易そうに見える外形的工作の工夫)によって、一見では恰も自らの内部の全てを曝け出しており、その内臓までをも包み隠さず過剰に露出しているかの如く、いかにもオープンで開放的に見えることだ。

 

しかし、その開放性が実は分厚く強固な防弾ガラスで覆われており、ふと気がつくと何時の間にかその内臓の深奥に悪徳が潜むファッショ権力の非常に貪欲で超閉鎖的でグロテスクな消化器官に取り込まれている!ということだ

 まさにファッショ建築、つまり日本の場合は、英霊界(日本会議)の代理人たるアベ様と呼ばれる『政治的甲殻生物』の罠である。特に主要TV・新聞・国民の共依存係(相互忖度“もたれ&もつれ”合い)」が一般社会における「想像力」の消滅を一層助長しつつある日本では、今やその安倍ファッショ政権の暴走が過激化(基本となる国家観のパースペクティブ、そして動線計画とゾーニングが狂暴化)し、驚くべきことに国家犯罪行為(例えば、歳費・公金が凡ゆる野望とお仲間益のため浪費されるアベ・サクラ祭り!)が罷り通るまで重篤化しつつある(関連参照/↓★)。

★マイファ―スト&ポピュリズムで“流動化”する世界、特に日本で目立つ<主要TV・新聞・国民>の「共依存(相互忖度“もたれ&もつれ”合い)」に因る「想像力」消滅 https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255 

・・・

そもそも、当記事をやや分析的な視点で書いたのは「自らの明らかな国家犯罪行為である「サクラ・スキャンダル」すら物ともせず「不遜の強欲悪鬼」と化したJPN一強権力こと<肝心のエルゴン問題など全く眼中にない安倍サクラ政権>が、愈〻、本物の「透明甲殻リバイアタン・ファッショ」と化しつつあり、無辜の日本国民の身ぐるみを剥ぎ取り、そのあげくに残り僅かな産毛一本までを根こそぎに抜き尽くそうとしている 」という危機感ゆえである。   

そして、一見では回り道のように見えるかもしれぬが、「マンデヴィル『蜂の寓話』を介在させつつ『日常』とホッブスに潜むエルゴン(格差の天敵)」を具体的に発見する努力こそが、やはり『魅惑するファシズムファシズムの美学@スーザン・ソンタグ』の精華(文字どおり“悪の華”)と見るべき「透明甲殻リバイアタン・ファッショ・アベ」の更なる暴走の天敵となり得ることが確認できたと思われる。

<注記> ファシズムの美学、アフォリズムジャン・ジュネ泥棒日記』より

・・・以下3件の出典/田中 純『政治の美学‐権力と表象‐』、P2~8・・・

ファシズムの美学/“芸術は行われよ、たとえ世界は滅びようとも”(@ベンヤミン『複製時代の芸術作品』

ファシズム」の“魅力”とは、「ナルシズム権力⇄ナルシズム国民」なる併せ鏡像式の相互凭れ合いによる、恰も汲めども尽きぬかの如くに無限退行する、非常に居心地が良い倒錯エロティシズム(2-3歳児“鏡像段階”@ラカン)の空気である。―スーザン・ソンタグ『魅惑(誘惑)するファシズム

アフォリズムジャン・ジュネ泥棒日記より(フィーチャー:( )内は原文)

・・・ただ、日本人(ドイツ人)だけが、安倍晋三ヒトラー)の時代に、同時に「警察・検察」(警察)であり「犯罪」であることに成功した。この反対物の壮大な総合、この真理の大塊は恐ろしいものであった。そして、それに満ちていた磁力は今後長いあいだ、我われを熱狂させ続けるだろう。

f:id:toxandoria:20191130183337p:plain

    (完)

 

(エピローグ)大澤昇平・東大准教授の「中国人は雇わない」発言&同炎上事件

 

f:id:toxandoria:20191201055200p:plainf:id:toxandoria:20191201055227p:plain

f:id:toxandoria:20191202180752p:plain・・・苦、の後に「w」が漏れました!w

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1199258765045813251 

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1200868393638715392

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1201426273920118784

・・・大澤昇平氏によれば「炎上商法は成功した!」と言うことらしいが、矢張り、その脳内メカニズムの何処かに何らかの象徴的な意味での欠損(一般教養的な表象の欠落?/これを放置すると、見えないことや、ありえないことと、リアルを同一視するカルト罹患の懸念)があるかもしれない?加えて、問題は新自由主義の賜物と思しき「特任准教授/有期雇用」なる待遇(肩書制度)そのものにもあるの鴨神社?ともかくも、当炎上事件の経緯は、下記★が詳しいようだ。

f:id:toxandoria:20191201055345p:plain

★「中国人は採用しません」「金子勇は犯罪者」「HTTPSなら90%安全」東大特任准教授、その炎上の流れ/篠原修司  | ITジャーナリスト、https://news.yahoo.co.jp/byline/shinoharashuji/20191127-00152659/

f:id:toxandoria:20191201055808p:plain

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1199257532260220928

・・・以下は、1~7「全文内容」の転載(一部補正した)。

大澤昇平氏(東大最年少准教授)の「水平思考(意外な解を発見する発想法)の重要性、文理融合型の教育方法の提言」などは理解できるが、コレ(中国人は採用しません!宣言?)は頂けない。

そのAI・IT系アタマは超一流かも?しれぬが、その認知能力の形成過程で何か欠陥(or欠損かノイズ)を抱え込んだのではなかろうか」?その結果としての<疑似「若年性認知症」症>のジャンルかも?(←認知症の方々への差別発言ではなく比喩表現です)

これからでも遅くないので、真の文理融合(コンシリエンス)とは何か?真のリアルとは何か?いわば、「virtual reality=実在はしないが実質的に機能する意味での現実/nominal reality=名バカりの現実」というリアルの意味について真剣に学び直して欲しい(これが一般教養なるもののキモです)。それに加えて、コノ種の断定的でストレートなヘイト発言は、人間の感情・情念についての理解不足から生じている可能性があると思われる。

例えば、今の日本も恩恵を受けている啓蒙思想(その普遍観念)にしても、そもそも初期の啓蒙思想の段階では情念に関わる深い理解(自然法の根源)から出発しており(Ex.ホッブス、ピエール・ベールあるいはマンデヴィルら)、そこから基本権(人権)、社会権三権分立政教分離などの抽象論理へ深化してきたといえる。

また、如何にずば抜けた理系アタマであっても“一皮剥いたらそれは情念の海の上に咲いた花だった!”というのがアンドロイドならぬヒトの正体であり、この真理は人種やジェンダーの差異とは無関係なことである。

未だまだお若いので此の機会をクスリにして、より説得力があり、より普遍性のあるヒューマンでグローバル(というよりもグローカル)な観点から今度こそ本物で“万人のため”になる「新AI救国論」を書いて欲しいと思う。

くれぐれも“万人へ【忖度】を求める”あまり今や<犯罪者&詐欺師ら嘘吐き共の巣窟>同然!と化した、わが【安倍サクラ内閣】の国策ヘイト&国策お仲間主義の醜悪なホンネ(悪徳の情念/私益すなわち公益!の嘘/@マンデヴィルの駄洒落を真に受けたおバカさん?!w)だけは学ばないで頂きたい。  以上